私のバイク好きはなんといっても仮面ライダー(どちらかというと一文字隼人ファン)の影響だ、駄菓子屋の1枚10円の紙袋に入ったカード(袋の中の写真は買うまで確認できない)でもサイクロン号の写真ばかりを狙っていた、一度後ろから撮った写真をゲットしたがナンバーを付けているのが不思議だった。今考えるとサイクロン号のデザインはホンダの250cc 6気筒のグランプリマシンのコピーだったのだがそのころは排気のエネルギーで走行するので6つのマフラーがついていると思っていた。(排気は下2気筒分しか出てなかったけど(2スト単気筒を振り分け)実際戦闘機のマスタングP51などは排気で80km/hほど速度をかせいでいるそうだ)よくスズキの実用車 125cc であのアクション(歌のバックでのジャンプ)をこなしていたものだ。それと比較するとキカイダーはマッハT(750SS)のサイドカーに乗っていたがアクションは地味だった。(アクセルターン位) あと、ガッチャマンの女性の人(私はダイキャストのミニカーを持ってた)やマジョッコメグのライバルの魔法使い(紫のアイシャドー)や峰藤子(赤いなにをけって〜〜。バイクの音はトラのデイトナだそうだ)や侍ジャイアンツのヒロイン(列車を追いかけてジャンプしてカウンター!)やワイルド7のオートバイシーン(ちゃんと最終回のオフロードにはトランポからオフロードマシンを出すシーンを作る凝り様)にも胸踊らせたものだ。
近所に止まっていたバイクのメータを見てはこれは80km、これは200kmなどと言って喜んでいた。(その頃はメータの一番上の数字が最高速だと思っていた)まだメータの180km/h規制はなく750は200kmのメータをつけていたように思う。
自転車で止まる時はいつもリヤブレーキだけを使ってカウンターを当てて止まっていた。ある雨の日に交差点で止まろうとしてそのまま180度回って転んだらバイクのおにいさんが「それはバイクでやるものだ」と言った。
いつもいく床屋で床屋のおにいさん(常にバイクを床屋の前に止めていて今でもXL250を止めている)がよその客と「知り合いでモンキーを改造した奴がいてバイク屋が125と交換して欲しいと言っても断っている」なんという話をうらやましく聞いていた。
近所のラーメン屋さんの配達人が雨で事故を起こして何人も交替しており、バイクは危険なもののようだった。
四国の田舎に帰った時に親戚の郵便カブの後ろに乗せてもらった。大変怖かった。
この頃のマンガにかなりバイクの描写に本格的なものがあり。バンビーンクライドラー、カンパーニョのマグネシウムホイール、ロータリー、コンチハン、トマゼリのクリップオン、ロックハートのオイルクーラ、4into1などの言葉が魅力的に配されていた。(ぶっとべ380のことではない。「熱風の虎」というマンガらしいです。)
高校に入り先輩のダックスの発進を試させてもらう、 何回やってもエンストかウイリーしてしまう。 DAXのエンジンはニュートラルでも実にゆっくりと吹け上がる。 MT50ではロデオのように何回もウイリーと接地を繰り返したこともある。 今考えると1台しかない自分のバイクを無免の後輩に良く貸してくれたものだ。 ウイリーは今は1100に乗っても全然できないのに。 (この頃はダックス、R&P、ノーティダックスなどカブ(or CB50)の エンジンに幅広低圧タイヤの原付がごろごろしていた、ヤマハはチャッピー、スズキはバンバン、男KAWASAKIはAR50まで 原付なんて作らなかった) 自分でも免許が欲しくなり高校を1日休んで鮫洲でとった。 多分満点だと思う(無駄な勉強の多い人生)。 鮫洲では免許をとったあと試験コースの一部を使って原付の試乗をしてくれていた (たしか私が試乗したのはスズキシャリー)。 コーナを4回まわるだけだったがアクセルオンのままチャリンコ のように曲がろうとしたら遠心力で思ったラインが描けなかった、 チャリンコの時は曲がる時に失う速度と釣り合わせるために自然にハンドルを切れ込ませて回転半径を徐々に小さくして遠心力を増加させていたようだ、とにかくパワーの凄さに感動した。翌日学校に行くと普段は私など問題にしない不良のおねえちゃん達も拍手してくれた。
初めて買ったバイク。新車で14.6万円だったと思う。バイク屋さんは50cc は馬力がないから2ストがいいと言ったのだがXL250S(23inch!)とほとんど同じに見えるカタログの写真のカッコ良さで XL50S(16inch 後輪は14inch!) にした。CB50譲りのエンジンはフィンが美しくとても魅力的だった。実物を見て小さいのに少しがっかりした。
若いということでバカ高い任意保険に入った。数万もしたと思う。
ニュートラルの入れ方がわからずしばらくは足でバイクを押しながらニュートラルに入れていた。半クラを使うことを教えてもらい目から鱗。
このバイクが一番大切にしたバイクで千円で安売りしていたコンパウンドのきついsoft99のかけすぎでわずか3ヵ月でタンクの塗装がはげて銀の下地が出て来るぐらいワックスかけした。ニーグリップのし過ぎでエンジンの塗装も落ちた。
CB50S のメガホンマフラーからの美しい排気音と比べると黒いマフラーの共鳴音は少し下品だった。ステップがオフロードタイプの鉄板を曲げてぎざぎざを付けただけだったので靴の裏がぎたぎたになったが可倒式 であったので何回コケても元通りになった。ハンドルの握りのゴムも妙に本格的なもので凹凸が深く素手では痛くなるほどだった。
ヘルメットはオレンジのジェットタイプだった。今のようにゴーグル等が簡単に手に入らず、大きな顔にオレンジのジェットヘルはかっこ悪かった。
歩行者天国の商店街の中にいあるバイク屋に行こうとして違反で捕まった。かなり必要とされる状況でも私は一生警察には協力しないと思う。権力の行使とは?
マフラーの取り付け部やキャリアの裏などにサビが浮いてきたのでCRC-556漬けにした。
タンクは4.5Lしか入らずリザーブまでの3.5Lでも航続距離は十分だったがガソリンスタンドで少ししか入らないので申し訳なかった。
ウインカーのリレーがスイッチを入れた瞬間に滅→明の順になるものでタイミングが遅れる。カワサキのように明→滅で動作するものに替えたかったが当時は方法がわからなかった。
スポークホイールの調整がしたくてニップル回しを買ってきてスポークを叩いて増し締めしてみた。音が変化するのはわかったがどうなればいいのかはわからなかった。
このバイクは私が購入した唯一の強制開閉式キャブ(aprilia RS250もだった)でアイドル付近に急に全開にするとエンストしそうになるしおもしろいキャブだった。
雨の日はプラグキャップに雨水が入ってエンジンが止まることがあった。雨の日は帰ってきて完全にエンジン、マフラーから水気がなくなるまでアイドリングしてからエンジンを切った。(近所迷惑)
プラグは1本しかなく2バルブで外しやすいのでいろいろ番手の違うものに付け替えて焼き色などを見てみたがあまり違いはなかった。
ある時、奥多摩有料道路に行った。途中で路肩に雪が積もっていた。あるコーナの路面が黒くなっていた。曲がろうとしたらそのまま路肩の雪に突っ込んだ。黒い所は路面が凍結していたようだ。これが初転倒だった。
シートが柔らかくて尻に張りつくので長時間は乗りにくかった。MT50のようにほとんどシートにクッションが無い方がいい。(MTはあのサスがあってのあのシートだろうけど)
先輩がMT50を持っていて結構気楽に貸してくれたのでこの頃の遠出はXLよりもMTでしたほうが多かった。MTは燃費は悪かったが制限速度以外は実用的にはまったく問題なかった。
この頃の原付といえば「私にも乗れるんです」と八千草薫に言わせたパッソルだ。今欲しい。ソフィアローレンもロードパルを宣伝していたが子供には彼女の色気がわからなかった。(八千草薫ならわかるわけでもない。)
後輪を滑べらせてのターンがやりたくて土の駐車場でバイクを寝かせて急にクラッチを繋いだらバイクからはねとばされてしたたか頭を打った、この時からヘルメットを必ず着用するようになった。
国道1号線の3車線の真中の車線を走って五反田に向かう途中に白バイに止められて「何故ハジを走らないんだ」「あぶないから」と答えたいうこともあった。今考えると良く4ストの原付で1号線の中央車線を走ったものだと思う。(通行帯違反でキップを切られた)
車の間から右折してきたGSX400Eのフロントタイアに乗り上げる事故も経験した。この時はメータのトリップを0に戻す軸が曲がり(前方にジャンプした私の左足が当たったのだ)、ウインカーも片方割れた。GSXのおにいさんはスズキの販売店につとめていて、今度スズキを買うときは値引きしてくれると言っていたが結局実現しなかった。ウインカーは店にあったCB250RSから外して付けてくれた。
始めてのツーリングは甲府の手前、大月の扇山を目指した、高尾山駅の前を過ぎるとなにやら霧が濃くなってきた、50cc のしょぼいライトではまったく道がわからずセンターラインの真上を走行して峠を越えた、これが始めての大垂水だった。扇山の登山道の入り口まで初めてのオフロードも経験した。
高校の友人でもちらほら原付を買い始めTY50(トレールだ、よくこのシートでツーリングをしたもんだ。このバイクはヤマハオートセンターで買った。一緒に見に行った時はギヤレバーとかが曲がっていて「ほんとにこれ買うのかよ」という感じだったが納車の時はきれいになっていておどろいた。彼はトレールが欲しくてこのバイクを買ったのだ、この頃は50でも皆真剣だった。)、TS50と3台で泊まりがけで伊豆にでかけた。雨の中ろくなカッパもなく大変だった。宿泊場所は鉄ちゃんのTS50のアサインでユースホステルになった、ミーティングはなかったがいろいろルールがあって面白かった。
私の高校のクラスにも何故か族の人がおり(地区で一番偏差値の高い公立高校に合格する不良。学業と族の両立は大変だと思う)文化祭の準備に友人宅に集まった所へ直菅のGS400が来た。すぐ横で聞くと直菅は本当に音が大きい。
この頃友人と走りに行くというと平和島の埋め立て地のあたりに造成の都合で使われなくなった立派な道路(もしかしたら今は沖合移転した羽田空港に行く道なのかも)がありそこへ友人と行っていた。そこはまだ道路がつながっていない場所でコーナーが一つあったが100kmでもあまりバイクが寝ないようなコーナだった。友人は走りに行くというと擦るからと言って RD250 のメインスタンドを毎回外していた、RD250 のモナカマフラーをまず外すのだがかなりの重さで作業は2人がかりだった。
RD250の彼はウイリーが上手くよくやってくれた。この頃はまだ曲がるということに世間の注目は集まっておらず (オートバイ誌の俺サでも峠を走るスーパーカブとかが取材されていた。俺サっていうのはその頃は冗談ページだった)上手いといえばウイリーだった。 「俺の友人でRG250Eでウイリーの上手い奴がいて族の前でやったが上手いので許してくれた」なんていうのが話題だった。 道を走っていると良くビートのサイドカバーのZ400FXとかが交差点でウイリーを披露していた。BEET工業の美藤代表は フレディのメカもした程の人らしいが、FXの標準仕様?の部品を当時は楽しく作っていたのかな?。 RDの彼はヘルメットに高橋国光などのレーサのサインをいくつかしてもらっていた。
最初はオレンジのジェットヘルだったのだがやはりなんなので黒のフルフェイスを買ったところ、Z250FT の友人に黒はやめろと注意された大田区では危険らしい。
やかんタンクで族をしていた中学の同級生の口癖は「バイクは又に爆弾かかえてるようなもんだから」だった。
友人のZ250FTは「掃除をすれば手を切る」言われたカワサキらしくフレームの溶接が半分しかされていない所があり溶接棒が付いたままだった。またFTは本当にギヤのタッチが無くてニュートラルに入れるのが大変だった。あれは技術が足りなくてああだったのか、なんか考えがあってああしていたのか今でも気になる。
このバイクで教習所走りを練習して鮫洲で小型免許を取った。受験車両はCD125。さすがに125は受ける人数が少なく予約も直ぐにできたし、合格すると大型を受けに来た連中も拍手してくれるのでお得だ。
この頃はやたらと免許を見せるように言われた、小学生の時に塾の帰りに既に「お仕事のお帰りですか」とおまわりさんに声を掛けられるほど老けていたがヘルメットを付けると若く見えたのかもしれない。
2国にあったパーツ屋でオイル注入口につけるブリーザパイプを買ってきてつけた。手をパイプにかざすと確かに空気が出入りしている。
ホテルニュージャパンが燃えたりした次のある朝、TVを見ると羽田のC滑走路にDC-8が墜落していた、 良く行く浮き島の近くだが受験生なので見に行けなかった。 まったく余談だけど、この時のNC-9に解説者として出ていた柳田邦男氏はごく初期の段階からリバースに スロットルが入っていることを指摘したりしておかしかった。本来ならブレーキをかける筈のNC9のキャスター氏 (磯村さんと木村さんの間の人)も「もう一度繰り返します。柳田さんのお考えでは〜〜」なんて何度も繰り返しおかしかった。 航空無線等で情報を掴むか副操縦士を早くから掴んでいたんじゃないだろうか。この後のチャレンジャーの爆発とかに呼ばれた時の柳田氏はおよびじゃないの植木等みたいにまったく切れがなかった。 昭和島にもバイクが行ったり来たりしている場所があった。
ヤングマシンなどの雑誌は本当にえらいと思う。50ccなど今では自転車にしか思えないと思うが真剣?に24時間耐久(RGB500でレースをしている人間をRG50に乗せたり)をしたりして盛り上げてくれる。新車の説明も本気度がつたわってくる。私も何故ホンダは7.2psのMB50を投入しないのかと考えていた。
オートバイ誌もこの頃良く読んでいた。 編集長のオー氏、黒の初代RZ250を買ったバイトのオオタ氏などの記事を読んでいた。 医者の息子で全日本500ccクラスにプライベータとして出ていて 雨の公道でRZ250で事故で死んだ人(草間郁夫氏)や斎藤仁氏(この人もプライベータ。垂水のそばの20号のジンプライズはまだあるかしら)の 記事も良く読んだ。 俺サもこのころは取材に峠に行って勝手に走っているバイク(ほとんど実用車の原付)の 写真を撮って勝手なコメントを付けるというものでのどかだった。 自分で撮った写真の投稿は自撮といって小さく扱われていた。記事的には、「ハングオン日本」、 「(裏六甲有料道路の)二輪通行止めの標識。怒りでカメラも揺れてしまった」、「定常円旋回?そんな写真はRC誌へ送ってくれ」、 「KH250、しょぼいサスだが綺麗な路面なら滑べるように曲がる。あとは紫煙の彼方へ消えるのみ」、 「清さん、Z1300を扱えるプロフェッショナルも彼位になってしまった。」、「バイトにはボーナスが出ないので オオタはなすに棒を刺してはしゃいでいる」とかだったような。イトシン氏のマンガもあったが、彼は私より年下のようだ?
CBXを買うことになり 8600km 走行した所で高校のクラブの先輩に売った。

大学受験も終わり二子玉川の東急でZ400Twinに跨りながら中免への限定解除を行った。 8時間の実技だけだった。「750ライダー」(作者は西蒲田のマンションに住んでいてマンションの下には 砂型の K0 がいつも止めてあった。「この重苦しい排気音はCB750に違いない」 なんてこの頃の750といえばスーパーバイクだった。 ちなみに私の高校はこの漫画の高校のモデルと言われていた。 委員長はいなかったが。 石段下りも近所の本門寺がモデル)の漫画のとおりに旧巨人軍グラウンドあたりの多摩堤通りでは 車線を封鎖して両車線を使ってゼロヨンをしていた。 彼等は、「すみません〜、今ここを通りますので危ないのでハジに寄せてください」と 丁寧に対面通行の道路を封鎖していた。 「やっぱりGSよりヨンフォアの方がはええぜ!」なんてもりあがっていた。 この頃ここらを走っていて後にオートバイ誌の0-400&最高速GPで有名になるB&Hの三原国光氏は当時「タイアは真中だけあればいい」と言って友人を呆れさせていたらしい。 多摩川の河川敷で四角く舗装してある所があってそこでも毎日バイクがぐるぐるしていた。Mr.Bike にも 何枚かそこの写真があったと思う。GSX-1100E でウィリーしたり。(昔、編集部が雪ヶ谷にあった。)
高校時代にホーク3のケツに良く乗っていたのでスーパーホーク3を買いに行くがもう在庫が無くCBX400F を買った、ブルーが納車が早いというのでブルーのツートンになった。スーパホークVの宣伝は若きスペンサーが草むらみたいなところを曲がっているものでなかなか良かったノダガ。
最初は大事にしていて自転車用のチェーンをかけていたがある日に忘れて発進したらチェーンはあっさり切れてしまった。
モトライダーかなんかの記事で、ホンダはCBX+スーパーホーク3、ヤマハはXJ400+XJ400D、スズキはGSX400E+GSX400F、カワサキはZ400FX+Z550FXで24時間耐久をするとう企画があったCBXははやばやと転倒してオイルを吹いてしまい下位にしずんでいた。
この頃のヘルメットは紫色のものになっていた。グローブはずっと自転車用の軍手を愛用していた。
燃費は飛ばそうがゆっくり走ろうがかわらず20km/lで一定していた。ホンダの4気筒はこういう傾向が多いようだ。
この頃はシールドで視界がゆがむのがいやで高速でもシールドを上げて走行していた。あるとき蜂がメットと頭の間にはさまった。刺された。
CBXといえばこの映画「スローなブギにしてくれ」、第三京浜とかが出てきて最高だった。 デビューしたての浅野温子が本当にかわいかった。 (記憶違い。スーパーホーク3 浅野温子は間違いではない!?)ある友人は、「彼のオートバイ、彼女の島」を読んで 免許を取りに行ったが、公道を一度走っただけで危ないとバイクを降りた。
最初のツーリングはクラスメートのZ250FTとその友人の先輩のCBX400F(赤白カウル付)と箱根に行った先輩の部屋へ行くとその頃はまだスクランブルがかかっていない警察無線がかかっていて「これは未成年でも実名とかなんでおもしろいんだ」などと言っていた。箱根に行く途中の東名では先輩はかなり出したがその頃は最高速などはまったく出せず(余談だが最高速&0-400グランプリも最高速を出すこと自体が難しい時代だったから人気があったかも)ついていけなかった。「ここでアクセルをワイドオープン」(by ネモケン)。箱根では現在では建物で富士山がみえなくなっている場所などで写真を撮った。
このバイクは良く乗った最初の数ヵ月は毎日ガソリンを入れ毎週オイル交換をして毎日200km走り(通学距離は往復で60kmなのに)半年で18000km乗った。
全然授業に出ず、学食の前でバイク談議ばかりをしていた。(食事も一日4回位学食で食べた。太った)
特に好きだったのが環八の渋滞で新聞社の社旗をつけたプレスと良く競争をした。 彼らは安全確認を完全にするので無鉄砲なバイク乗りよりは遅いがハンドルさばきがすばらしい。 彼らが左の車間を選んだらこちらは右というふうに競争していた。 この頃はわざわざ新宿に渋滞を走りにいったりした。「走りの共同を拝みやがれ」 バイク便が流行るのはまだだいぶ先のことだ。
新宿で汚れた英雄を見た帰りは友人を2ケツして特に速く府中に戻って来た記憶がある。 汚れた英雄のウイリーは平が不得意なので木下がやっている。 バイクはTZ250改の3気筒350を作った片山をモデルに 外側2気筒後方排気の並列4気筒最後のモデルを プライベータのメカニックが作ったことにしていた。 けがをした時のつなぎをかざるのはバリーシーンの家のマネだろう。 花のシーンは伊藤史朗がモデルらしい。(原作は北野氏がモデル) 最初の2スト4気筒をレーシングするシーン (TZのマフラーを写していて、白煙がアクセルを煽ると吹き飛ばされていく)が本当に最高。
ある時明治通りでワーゲンのフェンダーにハンドルが軽くあたった。会釈をすると運転手の男性はなんともないようだったが助手席の彼女がけしかけて車から降りてきた。女性はこわい。
毎日バイクにのっていると頭より先に体が動くようになる、トラックとガードレールのすき間などに体が先に反応して突っ込んで行って後で冷や汗をかくことがよくあった。のれてくると車の動きはウインカーよりも運転手の頭の動きを見るようになる大抵のドラーバーはウインカーをつけるより先に頭を動かして確認するのだ。あとアイコンタクトも重要だ人間はまだ動物の野生を少しは残しており見られると視線を感じるのだ相手の注意を欲しい時は相手を見るといい。
いくつかの違反を貯めて30日の免停になり講習会で2日にした後に 赤紙をもらう違反をして家裁送りということになった。(不思議なことに累積点数はその場では判らないので 違反によっては免許を取り上げられないが、この時は一発で免停の違反をしてしまった) どんな所かと期待していったが大森の環七のところにある普通の建物だった、 それなりのかっこのおににちゃんの次に面接みたいのをして終わり。 3000円の違反金の納入が遅れて警察署に呼び出されて払ったこともある。指紋を採られるが指を捕まれて ぐりぐりと指紋全体が紙に付くように回される。
広島の世羅西町出身の同じクラスの奴がヘルメットのNAVAをみて広島でなばと言えばキノコのことと言ってよく笑っていたが、それ以来広島出身の知り合いができるとかならずこの話をするが、だれも「なば」をキノコのことだとは言わない。(この頃マルコルッキネリがNAVAをかぶってSUZUKIで500ccチャンピオンになった)
この頃は本当にバイクの感覚がしみついているのでテレビでレーサーがバンクしているのを見ただけで自分の限界を越えて走っている感覚がして全身に汗をかいた。今は残念ながらなんともない。
通学もずっと続くと車線変更するタイミングも決まってくる。ある日、環八の田園調布の田園都市線を越える所でたまたま真ん中の車線を走っていたところ隣の車線を逆走してくる族がいた。いつもはそちらの車線を走っていたのでびっくりした。
前輪18inchのシングルディスクはあまり効かなかった(実際VT250の16inchの方が絶対的な制動力でも上だろう、雑誌で16inchを移植する記事もあった)が後輪はこの頃までのバイクの特徴で簡単にロックさせることができて良く遊べた。カウンターを良くやった。
環八と甲州街道の交差点の角に掘ひろこさんがやっていた「ひろこの」が当時はあり 黄色の外装にキスマークが書かれていた。一度だけ中を覗いたことがある。ひろこさんがいらしたが目をあわせる度胸もなかった。 掘ひろこさんは当時数少ない女性ライダーでラベルダの7504気筒等を駆って雑誌等で活躍していた。 中村由美さんも雑誌の対談でひろこさんのラベルダにタンデムしてから 2輪に乗られるようになったと思う。 おみせの外装はあの後もしばらくは黄色だった。Ken's Talk の「いい人程〜」が記憶に残る。
この頃は道を知らず、蒲田から秋葉原に行くのに四ツ谷を何時も経由していた。
買った当時はメインスタンドを良く擦っていたが、4耐に挑戦する雑誌の記事でリヤサスの空気圧を上げると良いとあったので2→3kg/m**2に上げるとやっとステップを擦るようになった。この頃は4耐の最初の年でヨシムラはプライベータに4気筒は高過ぎるとかでGSX400Eで挑戦してた。
X型のマフラーはCB400F(ヨンフォア。この頃は排気脈動効果なんか考える必要はなくマフラーはきれいなくし型に4into1をかたちづくっていた。サイドカバーが黒いのは408cc)ほどは美しくなく掃除がしにくかった、インボードの鋳鉄ディスクも洗車のたびにサビを噴いた。
とりあえず、ブレーキランプと一体化したウインカーはまだデザインがこなれてなかった。フロントウインカーも蝶ネクタイみたいだった。(アンダーブラケットの高さにウインカーがあるのはホンダの伝統デザイン)
ジュラ鍛でできていたハンドルは何度こけてもなんともなかった。レバーも交換したことはなかった。
ナンバーは71-09(無い霊柩)という番号だった。最初の箱根ツーリングで曲がる車にナンバーを引っかけられて直ぐに折れたナンバープレートになってしまった。
ツーリングで1号線の清水あたりを走っていた時に眠くなり雨の中カッパを着てバイクの上でハンドルの上に頭(ヘルメットをかぶったまま)を乗せて路肩で2時間ほど寝た。CBXはまだタンクとシートの段差が少なくこんなことが可能だった。この頃の夜間の1号線は夜間は完全に信号無視だったので赤信号のたびに路肩によけないとトラックに轢かれてしまう。
エンジンは6000rpm を境に排気音から吸気音になるかのように音が変化し(ホンダはこういった味付けが得意だった)いっきに吹け上がった、感覚的な加速の暴力さはホーク3の方が勝っていた。何気筒かわからないといわれたホークの400cc超ショートストロークエンジンは最高だと思う。(F1 でホンダが当初失敗した理由がショートストロークにあったとしても)
この頃は国立市の小学校、中学校の守衛のバイトをしていて学校で良くバイクを洗車した。ラビット関根に似てると生徒に言われた。ある時小学校で8時過ぎまで寝込んでしまい、トイレの窓から入った小学生がカギをあけて起きたら枕元に校長が立っていたことがあった。後で校長室に呼ばれた。
ホンダのバイクにはこの頃からちゃんとしたハンドリングがあった。CBXと比べるとGSX400Eなどはタイヤを螺子止めしただけで直進とコーナリングのめりはりが全然感じられなかった。
ある冬の日珍しく大量の雪が降った(最近は異常気象のせいか珍しくないけど)、根性でバイクで大学に行こうと環八の用賀あたりの左車線を走行中ドンと頭と肩に鈍い衝撃があって全く目が見えなくなった、なんとかバイクを停止させ(ホント40km/h位でてたよあぶない)、頭に手をやるとヘルメットを完全に雪が覆っているらしい、手で雪をどけると目が見えた、バイクをハジに寄せ(環八でよく後ろを車が走ってなかったよ)、後ろを見るとどうやら信号機の雪がタイミング良く私の上に落ちて来たようだ。
ある日先輩の家の前に駐車していたらサイドカバーが盗まれていた(ゴムにぽっちで止めてあるだけなので簡単に盗める)、次の日にエンジンを掛けようとしたらセルが回らない、見ると今度はバッテリーが盗まれていた。フルトラなので押しがけもできない。スズキのバイクがバッテリーをフレームの奥底に隠すのは盗難防止だろうか。サイドカバーは結局2回盗まれた。この部品はめずらしくシールが貼った状態で販売されていて助かった。
これまた先輩の家の前にとめていたところ夜中に工事があったようでバイクが移動されていた無理に何人かで持ち上げたらしくシートカウルのマウントが割れてしまっていた。
フロントのブレーキキャリパーの交換にディーラに出したあと第三京浜で車線変更をするとなんか振られる、保土ケ谷休憩所で調べると車軸のナットが手で回った、手で仮締めした後本締めしてなかったのだ、ディーラはキャリパーの交換にフロントアクスルを抜く必要はないとかなんとか事実を認めようとはしなかった。
乗り方はまずは、オートバイ誌の荘乗りを参考にハングオンを覚えた(CBX1000のセンタースタンドをかけて荘乗りを教える記事また読みたいな)、確かに外足加重は間違っているかもしれないがハングオンができない人間に教える最初の段階としては良くできていると思う。荘さん(8連勝のトシ)にはだいぶ後に那須スポーツランドで走行会の時に彼女と2人連れで車で来てるのを見掛けた。ヤマハの藤原も彼女をつれて垂水へきたというしバイクの有名人はマイナーで苦労しているようだ。(荘さんは川口オートの前でジャズ喫茶をされているらしい)
多摩霊園の中の道が20号から東八(30m)道路への近道で良く使っていたがある日皮つなぎを着た若者がガードレールに立てかけてあった、次の日に通ると花が飾られていた、近道をする車が横から飛び出して来てぶつけられたようだった。救急車を見た後、死亡事故だったかは次の日に花があるかを見れば判る。バイクは渋滞お構い無しなので車よりも死体や救助を待つ痙攣して横たわる体を見る機会が多い。(峠道ではトレーナがガードレールにくくりつけてあれば死亡)
この頃は爪先乗りが流行っていた片山のメカニックもしていたという熊さん(YUZOチャンバーの人)も雑誌で進めていた(バレーの選手がプレー中に踵を地面に付けるか?の理屈)こともあって皆していた、スガヤのチャンバーのRZ250(オイルは当然カストロ)など皆爪先乗りをしていた。私も爪先乗りをしていたがかかとでサイドカバーをグリップするのでサイドカバーが割れてしまった。
1号線の滋賀のあたりをツーリングしていると信号で対向車線の軽トラの運ちゃんが手を下に出してくるくる回している、思わず手真似をしてみたがなんのことか判らない、100m ほど先でねずみ取りで速度違反で捕まった。次の日の夜、姫路の2号線を走っていると対向車線(片側2車線)を集団で走っているコンボイがパッシングをした、今日はすかさずフルブレーキをかけた、すると目の前を黒いものがふらふらと通り過ぎて左の路肩にぶつかって止まった、良く見るとトラックのタイヤだ、反対車線を見るとコンボイの過ぎ去った後に車が一台残されている、タイヤにやられたようでオイルと水を路面にぶちまけている、しばらくしてドアがあいておっさんがふらふらと歩いて来る、しょうがないので近くのラーメン屋まで乗せてやった、その時貸した友人のヘルメットには鼻血がついていた。それ以来スペアタイアが揺れているトラックの後ろは走るのをやめた。この時の目的地は下関、帰りは2号線1号線で26時間で東京まで帰って来たさすがに泥のように寝た。(最近の1号線は高速並みに走りやすいので昔と同じと思わないように)
走行距離が20000kmを越えたある日環八の久が原あたりを走っていると事故のため左側2車線が規制されて1車線になっていた、そこを通過すると次の信号の所で車線規制の影からコクヨワークスの軽がUターンをしようと飛び出して来た、ブレーキをかけたが停止線の上でフロントからコケて相手の右側のドアにボディーブローを食らわす形になった。頭の中で猪木のテーマが鳴り響き(その当時佐山稔がタイガーをやっていて古館の実況で毎週見ていたのだ)軽の方に向かって行くと中から出て来たのは(里見八犬伝の前の枠かなんかで侍役をしていた当時の)田村正和をさらにひ弱にしたようなやさ男であった。警察は自分達の車線規制の不手際を上司に知られたくないのか人身事故にしないように勧めた。(バイクの事故は全部人身事故にするべし)示談の書類は文房具屋にあるとのことでその男の軽で文房具屋へ向かう「バッジは恥ずかしいから外した方がいいかな」何から何まで気の抜ける男だった。 この頃、4輪の免許を取りに行っており、先生に始めてとは思えませんねとか褒められていい気になって油断していたと思う。
タイヤは最初の何回は純正と同じダンロップのKナントカというのを付けていたがブリジストンからバトラックスというピレリファントムみたいなパターンのもの(雑誌の宣伝も完全にファントムを意識した後ろからの絵だった)がでたのでこれに換えた、低温特性が良くないのか走りだし直後に良くこけるようになった。
友人につれられ横須賀のあたりの倉庫街へ行く、周回路で走行会をしているのだが走っている連中はノーヘルモヒカンである、なかなか異様な光景であった。
ある日実家から府中にバイクで帰りつくとシートに括り付けておいたはずの荷物がない。ヘッドライトをたよりに来た道を府中に戻ると首都高の中央高速の料金所の手前のトンネルになっている所あたりに荷物が散乱しているのが見える。バイクを狭い路肩に止めて走行する車のライトをたよりに見ると中央分離帯から路肩まで万遍なく荷物が分散している。靴の片方や服の切れ端、メリーチョコレートの残骸(3/13だった)などが見つかったが何一つ使えるものはなかった。
ある時首都高を走っているとヘルメットに黒いドッグフードみたいなものがパラパラ当たった、何が降ってるのかなと思ったが前を見ると左後輪を失った車が必死に左に寄せようとしていた。またある時は横の車の前のタイヤがバスケットボールをドリブルするように上下していた、タイヤを指差すと運転手は不思議そうな顔をしていたがじきに顔色が代わりこれも端によせはじめた。
CBXでは車線変更に凝っていたフロントホークを捻ると前輪が隣の車線に向かって面白いように曲がった、ステップを擦ったこともある。(今考えると族のやるローリングというのはこれだろう。エンペラーの元頭だったという岩城晃一が映画の中でZで見事な首都高ローリングを決めている、この映画はこの頃の無軌道な感じを良くだしていて千葉真一もカウンターは当てるし、最後は岩城とヒロインが崖からジャンプして自殺するという凄い内容だった。)あまり調子に乗ってやっていたので府中に大型免許試験を受けに行った帰り(当然落ちた時)に東八でUターンした後車線変更したら自分で前輪を払うような形でこけた、ヘッドライトは割れたが幸い今は無き鬼の中川練習場で借りたブーツを履いていたのでブーツに穴が空くだけで済んだ。通りかかった白バイが感心していた。この頃は本当に低速のUターンでもおもしろいようにステップを擦った。
この頃は授業の教室が変わるだけでもCBXで移動していた。100mの距離でもバイクに乗るので太った。フロ屋にもバイクで行っていたがフロの後でメットをかぶるのはイヤだった。AE86を買ってからは86で行っていたが86が石鹸くさくなってしまった。
大学の新歓が生協であった。自己紹介で日本酒4杯を飲み。CBXで帰ったら数学の教授(単位はくれんかった)や先輩に大変感心された。実は構内を半周して教室で直ぐ寝た。
ちょうどトライアルのバイクがやるように体を完全にリーンアウトにしてその場でくるくる回りステップを擦るようなこともできた。最初CB50でやって遊んでいたのだが試しにCBXでやるとこれでもできてしまった。ホンダの4気筒は完全に滑らかであった。
XJ400を買った高校時代の友人とツーリングした。目的地につくと彼はシート下のツールボックスのカッパの後ろから彼の母が作ったというお握りを出して食べさせてくれた。たしかにかなりの空間があるが食品を入れる場所ではないとおもうが。
環八の墓場があるためにまだ開通していない部分のバイパス路の交差点にちょうどいいアスファルトのこぶがあっていつもそこに後輪が乗った瞬間にスキーの抜重ターンの要領で曲がっていた、ある日同じことをしたらその瞬間にバイクが勝手に前方に滑べって行くのが見えた、太ももを酷く擦った。この時は車の年上の友人達と野球をしに行く途中だったが「というわけなので私は帰ります」と言ったら大変感心された。
CBXのステップのバンクセンサーは750Fと違ってただのテッパンの折り曲げだったのですぐに穴があいた。ステップゴムもぐにゅぐにゅしたものだった。
CBXのライトはやっと普及してきたハロゲンでカットもくっきりとしており水平線から上には光がもれないので夜峠を走ると気持ちがよかった。(この頃はヨウ素球とか言ってた)
ある日先輩が60日の免停になったといってクリップオンハンドルを買ってきた、先輩の CB250RS-Z(赤) に付けてみると板金で作っただけの安物でブラケットの高さが10cm位あり調節ができないのでハンドルの高さがタンクの半分になった。先輩は免停なので私が運転して先輩を乗せることになった。このハンドルはほとんど切れなかったが倒し込みが楽になり重心近くを握っているのでバイクの軽さを感じずに体重が預けられる。しょぼい純正タイヤも気にならずいい感じだった。ある日府中の欅並木で歩いている警官に捕まった。府中警察で(警察官)「改造工場は?」「自分でやりました」とか(婦警)「未成年?老けてるな」「余計なお世話だ」とかいろいろ聞かれて直すように言われた。ハンドルの測定をするときに噂のとおりにタンクの中央からハンドルまでの長さを計っていた。そんなん正確に計れるのだろうか。ので先輩の免停明け前に元に戻した。RS-Zは左右のフォークをこの頃流行っていた空気パイプでつないであるのだがそれを外して作業をしたので、バイク屋に空気漏れの恐れがあると言われて先輩は怒っていた、デモそれ以外に付けようがナイゾ。この先輩は北海道出身で「7時になればもう昼間だ」といってアパートのドアの前でRS-Zのチョークを引いてながながと毎日暖気運転していた迷惑な人だ。あとこの先輩には専門の保険屋がついていて事故の際の負担の比率などをいろいろ教えていた、飲み会にもかならず来ていた、学生を相手にしてても対してもうからないとおもう、我々を紹介すればいいと思うがそういうことはしない先輩だった。この先輩のRS-Zを借りて大垂水を走っていて対抗車線の向こうの壁に擦ってギヤチェンジのレバーを曲げたこともあった、その時はすかさず部品を買ってきて修理した。 あるときこの先輩との約束をすっぽかしたが「女か?女ならしかたない何でも許す」という哲学の人だった。
先輩のアルバイト先の会社員の人がリード125を新車で買ったが音がうるさいので見て欲しいと言われて、見てみると、ギヤオイルがまったく入っていなかった、納車作業に落ち度があったのだろう、そのことを会社員の人に言ってクレームで新車に交換してもらうように言ったが、その人はお店に持っていってコロット言いくるめられてオイルを入れられただけだった。知識が無いのは損なのか幸なのか。
大学のツーリングクラブに参加していた、ツーリングクラブでは5月に新歓ツーリングとして富士山の5合目へツーリングを行う、ただただ飛ばすので当然事故になる富士山の有料道路(北側のやつ)に入るとただただ直線が続くここで遅れまいとアクセルを捻ると突然急な右コーナになってそこで転倒する。この時は先輩がGSX250Eで、先輩はガードレールの上、バイクは下を通過してコーナの外に消えた。救急車で病院送りになった、付き添いは1人だけとのことだったが皆が救急車に乗りたがったのは言うまでもない。次の事故?は、夏には金持ちの先輩の下田の別荘(PL教で柱にピンクのダイヤ?が埋め込んであった)に行くことになっていた、着いて宴たけなわに岬を見に行こうということになった、飛ばして岬に着くと後輩が来ないという、そいつは親がバイクに反対していて無免なのだが先輩の RZ350! を借りてしまったという(俺だって借りたいのを我慢してるのに)、私が先頭で戻ってみるとコーナのガードレールの下にヘルメットが置かれていた、てっきり首が飛んだものと思ったが、それは後輩が自分で置いたものだった。話を聞くとコーナで RZ350 のデュアルディスクブレーキを思いきりかけたところ、減速 G で眼鏡がふっ飛んで視界が無くなったらしい、そのまま彼は直進して運良くガードレールの2mの切れ目(運良くそこだけガードレールが無かった)から2〜3m崖下のどぶ川にダイブしたらしい、彼はかなりの怪我であった、普段は勢いのいい奴だったが親の前ではいい子どもらしくてバイクを廃車にされたのに先輩は親に結構いろいろ言われたという、バイクを貸す前に相手の親には一度会っといた方がいい。RZは横浜に行くにも給油が必要と言われていたが速いことは速かった。この先輩はこの次はNS250Rを買ったが環八の渋滞で冷却液をぶちかます程(本当に私の目の前でぶちかました)のマシンで直ぐに手放した。でカマロを買った。この先輩もCBXを持っていたがフロントスタビライザーという部品を付けていてこけたところバイクが振られるようになったと言う。スタビライザーを一旦緩めたところ収まった。
この頃はまだなかがみやが営業していてたまに行ってはカツ丼などを食べた。 なかがみやのおやじは警察がきらいでそのこともあそこをバイク天国にしていた一因だったそうだ。 まだなかがみやの先のコーナに橋がなく曲がりが急だった。今そのスペースにはパトカーが良く止まっている。(車が入ると「チン」と音のするガソリンクタンドもあった) 皮つなぎを持っている連中も少なかったが走っている連中は多かった。この頃は3つ位の場所に別れて走っていてそれなりにレベル分けができていたように思う。バリバリ伝説を読むとギャラリーが道路以外の部分を歩いて行く記述があるが本当にこの頃は大垂水にも獣道のようにギャラリーが歩く道が山の中にあった。(歩道が全部繋がっていないため)峠の御宿はバイク嫌いだが娘が芸能人だった。 この頃はなかがみ屋前のコーナなどは私のようなものは走ることもできず、車の後についておとなしくなかがみ屋の駐車場に入れ、帰る時もまた車の後で出る程だった。走りたければ早朝に行くしかなかった。(深夜は車が走行する時間)
TBSの生田スタジオや読売ランドがある通称ランド坂にも何回か行った。フィレディは確かにコーナの手前の直線の路肩にラインを塞ぐ形で良く止まっていた。気の良さそうな感じだったが。
府中の免許試験場で750試験を見た後、後輩(2代目VT250F+'83スペンサレプリカ+ホンダ就職)を後ろに乗せて30M(東八)道路を加速したところ後輩がバックミラーの中ででんぐりがえしをしている。笑った。CBXはろくにつかまる所がないので落ちたようだ。
この頃東八道路(30M道路)の野川公園のコーナのあたりでは夜な夜なゼロヨン大会(主に車)が開かれていた。 スタートの合図をする人があぶなそうだ。
この頃は左コーナが得意だったので転倒は全て左に集中していた、スピードメータは2回交換したがタコメータは一度も交換しなかった、この頃のホンダのメータ針は退色が激しかったのでアンバランスだった。メータの裏の電球をはずして取り付けるのが上手くなった。エンジンの左にはセルに繋がるギアのカバーがあったがこれもこけて擦って交換するはめになった。
CBXのタンクは良くできていて、いくらこけてもワックスの擦り跡ができる位で傷はつかなかった。 VT250などはすぐにタンクに穴があいてしまう。(フレームも薄肉大径と凝っているためにすぐに皺が寄る)
アルミのブレーキペダルはけずれて半分の幅になってしまった。(右にも結構こけたのかしら)
体重でシートがつぶれてあんこ抜きしたようになってしまった。
この頃は音でバイクの種類がわかった。CBX,XJ,GSX,Z,VT,RZなどすべて部屋の外を通るだけで分かった。(VTはカウルの有無まで!)
この頃の有名な走行場所と言えば奥多摩有料道路でかなり遠いにもかかわらず月夜野駐車場などにも何回か出かけた。
マフラーの集合部は擦ると錆びがでてまたそこを擦ると地肌がでるような状態になった。バックミラーの裏も擦り傷だらけになった。
この頃はまだ皮つなぎを持っていなかったのでこけると膝に大きな傷ができたまだ跡が残っている。
乗りやすいようにハンドルを調整すると左側を手前に右側を水平にするようになった(何度も左にこけたのでハンドルの回転防止のピンはすでに無くなっていた)左側でハンドルを固定し右側でアクセラレーションする。
友人が VT250 を買ったので、名古屋城の回りの一方通行路(今は多分二輪閉鎖)で乗せてもらった、 とても乗りやすく初めてハイサイトした。VT250は前輪16inchでクギを拾いやすくパンクしやすかった。
ケニーロバーツがなんとなくスピードを落すとコース上に転倒した人(ウンチーニ、彼は500cc の決勝でもヘルメットの紐をかけないらしい) がいたり、それをケニーを抜いたワインガードナーがひいたり。 ケニーが8耐でわざとガスを食わせて冷却したエンジンを平が ブローさせたりしていた。
府中には本田の部品の卸をしている会社があって一般の我々にも部品を小売りしてくれた。 窓口のおにいさんは部品番号を暗記していてだいたいの形や壊れた部品を見せると 直ぐに発注してくれた。部品交換で直るような故障は自分で部品を買ってきて直した。
CBX は、段々混合気が薄くなる癖があるらしく、ある日第三京浜で1気筒が死んだのでプラグを見て見ると完全に電極が蒸発してマッハの平面プラグのようになっていた幸いにもうまく蒸発したようでビストンでシェイクするようなことにはならなかった、プラグを交換し1万でバイク屋さんで燃調をとってもらう。
大学2年の夏休みが終ったところ、GSX400Tに乗っていたバイク仲間の1人が限定解除をしてXV750Eで大学に来た。 内緒で練習して取りに行ったらしい。早速750ブームがやって来た。
鬼の中川で練習し(杉本?も安いので何回か腕をみせに行った)府中で限定解除した。 元白バイ隊長という中川さんは竹刀を振り回す役でバイクはもっぱら若いにいちゃんが乗っていた。 スラロームのパイロンは最後の一本がわざと近めに置いてありそこをクリアするのが難しかった。 良く現役白バイが遊びに来ていた。 ある日ラジオの取材が来ていて「中川さんはどんな人ですか」と質問するので「魚の骨のような人」と答えたら無言になった。
中川のバイクはGSX750EとCB750Kで低速でばかり走るので始動が悪く朝練(試験日は朝試験に行く前に乗れる)の時は外部のバッテリーを繋いで数台試してやっとかかる位だった。
中川ではCBXで身につけた悪いくせがもろにでた。バイクを寝かせるとアクセルを捻ってバイクをささえるので直線をゆっくり走り曲がる所で加速するような感じだった。
乗る前はCBの方が好きだったがCBはハンドルの絞りがきつくて一本橋がGSXより難しかった。試験場での台数もGSX4台に対してCBは2台位しかなく、乗る機会が少ないので乗ったときは初めて一本橋で落ちてすぐ試験中止になった。
中川には350のモトグッチ(V35イモラ)に乗っている女性が働いていた。元気にしてるかしら。
府中試験場では最初に8の字押しと引き起こしをさせられるがバイクは水冷2スト3気筒のGT750ウオータバッファローだった。タンクに砂がつめてあるのではと噂されていた。
スピードメータが新品だったので実は 36000km と正直に申告したにもかかわらず吉祥寺のチェッカーモータースで20万でVF750Fの下取りしてくれた。マフラーは擦って錆びだらけだし、燃調が悪くて6000も回らないのにこの価格とはバイクの価値はやっぱり車種によるなと感心した。



同じクラスでバイクの再生などをしている友人から近所に乗られていない状態のいいCB50があるが譲ってくれるよう交渉してみないかと言われて練馬まで行きバイクの置いてある家の人に2万円で無理にゆずってもらった。
色は白でJXはまだ機械式ディスクブレーキで分解してもチョコチップみたいな部品があったりしてどう 動作しているかもわからず効きも良くならなかった。まだドラムブレーキの方が扱いやすい。
この友人とは練馬の方にあるバイク専門の解体屋になんどか行った。 練馬には焼き肉と寿司を食べ放題にする店もありそこにも通った。太った。
友人の家の近くで30km/h位から後輪をロックさせて滑らせる遊びをしていたら近所の人におこられた。
メガホンマフラーは本当に良い音がして11000rpmまできれいにまわりかなりのスピードがでた。 東名高速に屋根があれば乗用車は全てCB50で置き換え可能だろう。この友人は限定解除も持っているのにCB50で かなりのスピードオーバで捕まった。
大学の友人にオレンジのラクーンに乗ったWという奴がいて彼がパッソルなどのスクータ系の原付の乗り方を良く心得ていて綺麗に股を開いて乗っていた。この頃はまだこういった乗り方は珍しく目立っていた。
大学の原付仲間には広島の高校時代から乗っているというMB50(当然ハンドルの低い初期型)の寮に住んでいるやつがいて彼のMB50も借りてはぶんまわしたものだ。このMB50はタンクの下部に穴が開いていてサビで穴を塞いでいるような状態で予備タンクにはするなと言われた。
CBのメータもホンダ伝統の退色がはげしく薄緑になっていた。
友人は自分が欲しくて私に買わせたためしばらくたったら彼に買われてしまった。
最初はCB750Fが欲しくて近所の中古車屋で黒のFBを買おうとしたりしたが(当然バリ伝の影響)、 友人に赤のFBがいることもあり値段の安いVFを探した。 この頃はF.スペンサーが最強であり彼がWGP500のついでにブルーの VF750F改をデイトナで軽々と振り回す(当然ぶっちぎり優勝)のを 雑誌(当然ライダースクラブ)で見てこれしかないと思っていた。 だがとにかく価格が高くてなかなか手が出なかった。48万位で購入したと思う。
とにかく重かった。カタナより剛性があり振られることはなかったがとにかく重くかつ高重心だった。とにかく排気量を上げていけば全てが解決するとこの頃は考えていたがそうではなかった。
燃費が悪かった。13km/l程しかなくこの頃乗っていたトレノGTV(AE86)と出かける時にどちらを選ぶか考える時に燃費でバイクを選ぶことはなかった。排気もまだガソリン匂のたっぷりのこるガソリンエンジンらしいもので後方気筒が熱的に苦しいこともありかなり濃いめになっているようだった。それでも23Lタンクは航続距離に不足はなかった。
バックトルクリミッターというのがついていて後輪のロックを防いでいたがわざと1速にでも落とさないかぎり効くことはなかった。効くとクラッチがすべったような感じになる。
クラッチはブレーキと同じくオイルで駆動するようになっていたがワイヤーのものと違って握っていっても軽くなるということがなくてだんだん重くなるようでツーリングの時に腕がつらかった。
バッテリーが上がって押し掛けをするしかなくなったが重い車体と繋がりのいいクラッチのせいで1回で必ず始動した。ガソリンスタンドから押し掛けで発進するのは少しはずかしかったが。押し掛けは本当にすぐに最大脈拍数に達するすばらしい運動だと思う。ただし有酸素運動になる20分は絶対に続かない。
オイルはAE86と共用で車用のトヨタの合成オイルを入れていたがなんともなかった。
最初のフロント16inch市販車のためかコーナーのクリップポイントでぐらっと内に切れ込んだ。この頃は一番バイクが寝る所では一番アクセルを閉じてタイヤのグリップを遠心力にのみ向けるものだと思っていたので乗り方に問題があったかもしれない。切れ込みはハンドルをクリップオンに替えてから起こらなくなった。このグラがたぶんライダースクラブの言うところの向き変えなのだと思うもう一度乗ってみたいものだ。(この前aprilia1000に試乗したら同じことが起こったやはりポジションによるもののようだ)
クリップオンハンドルとバックステップを何処かで中古で買って取り付けた。
大学の友人も皆バイクに乗っており夏休みに三重、西宮の友人の実家をたよりに鈴鹿、六甲とツーリングをした。三重では鰻、六甲では焼き肉などたらふく食べた。六甲では友人の親戚(その頃で38才位)がGSX750E4にのっておりいろいろ案内をしてくれた。宮城光が刀でテールスライドさせながら上ったという坂などを案内された。まだ通行止めが土日だけに限られていて走り回ることができた。
夜のコーナが得意で友人のGPZ250(ベルトドライブ!)と夜の裏六甲を走ったこともあった。裏六甲は狭いので少し前輪を外側に振るといいようだ。
この頃の大学の友人のバイクは、CB250RS-Z→CB750FB、XL250S→VF750S、GSX750S、GPZ250ベルトドライブ、GSX400L→TR750、VT250F→CB750F、VT250→CB750F-2等で走り回っていた。
自分が乗る前には町中でVF750Fのウイリーをたびたび見ていたので自分も練習したがついにできるようにならなかった。
このバイクは渋滞につかまると直ぐ水温が上昇してファンがまわるが渋滞が解消して100mも走ると水温が下がるという極端なバイクだった。
ある時、学校でギアを入れようとしたらリタンスプリングが飛んだのかギヤチャンジがまったくできなくなった。幸いにも2速だったので発進から100km/hまでカバーできたのでエンジンを冷やすために休憩をしながら家まで戻れた。ホンダSF(我が町にもあった最高の整備工場)に持っていくと保証期間もなにもなくタダで修理をしてくれた。このバイクはCB750と比較するとギヤが硬かったので遊星ギアはまだ未完成だったのかもしれない。
府中にPPというバイク屋がありリッターバイクの試乗をさせてくれていた。 友人のSと2人ででかけXJR1100(前後16inchのタイヤのおばけ)や Z1000RXなどを店の前の道で心行くまで飛ばした。店の人はあまり良い顔をしていなかったようだ。このお店でメットを買った時にもらったキーホルダーをいまだに使用している。
妹がPOP-GALという原付に乗っていた。しばらく放置していたのでエンジンをかけるとすごい異音がするようになった。ギヤにオイルを一杯にまで入れてみたが直らなかった。
タイヤは最初は純正のダンロップを付けていたがだいぶ輸入タイヤも安くなったのでピレリファントム(プラスワンじぐざぐがつながってないやつ)を付けた。付けたとたん最初のコーナからはりついたように同じバンク角をタイアが維持しようとするようになった。結局最後まで一度もこのタイアが外に滑ったことはなかった。
大学の友人で裏道が大好きなものがいて府中から新宿に行くのに20号を使わずいつでも裏道を使うやつがいた。別に近道ではなかったようだが。
180度クランクのV型4気筒は並列4気筒と違って低速ががくがくし交差点で突然ばたと倒れたことがあった。倒れたバイクをぼっと見ていると物好きなにいちゃんがちかずいてきて「私もよくやるんですよ」なんていって起こしてくれた。
サイドスタンドが細い鋳物のようなものでできていてアスファルトがやわらかいところでは良く刺さった。
大学の友人の転倒記録をまとめると、CB250RS-Zが大学構内でこけた。XL250S(パリダカ)は三鷹でこけた。夜下宿で寝ていると 突然彼がやってきて「三鷹でこけた」と言う。一緒にバイクで戻って見るとこけた場所にまだ鍵とかが 散乱していた、一緒に拾った。GPZ250は私のCB50JXで学内でこけた。
秩父の方に細かいカーブで構成される峠道(正丸峠)があって結構な台数が走っていた。ここで地元のFZ750の女の子を追いかけた。彼女は自信があったらしく可哀相なことをした。
結局このバイクは最高速をだしたことはなかった。今よりレーダ取締りは確実に多かったと思う。
会社に入り初任給でクシタニでつなぎを作った。 サイズがないのでつるしと同じデザインながら1.5倍かかった。 この頃はまだ峠族の前だったので地味なデザインになってしまった。 クシタニは「今日はどちらへいらしたんですか」など 店長にマクナル(マクドナルドの関西方面における呼称)のようにマニュアルしゃべりをさせていたが、 彼らはCB750改などを乗り回しているのだからもう少し 自分の言葉でしゃべらせた方が良かった。 どちらへって言われても箱根の帰りに寄るような元気ないよ。 つぶれた羽田店の私と誕生日が一緒の店長どしてるかしら。(大森店でお会いした。大森も閉店して246店へ) この当時はクシタニは春と秋にその年の上着のモデルを作って、常連さんも毎年買い替えていたようだが そんなことは何年も続く筈がなかった。
ウインカーのゴムの中には鉄の芯が入っているのだが外れてブラブラしていた。XL250Sも同じ。
このバイクで九州にツーリングする途中で鈴鹿スカイラインに寄った。 上の写真はその時に仲良くなった地元の子に持っていった子ども用カメラ (サクラのフィルムがプラスチックケースに入っているもの。四角いストロボと共に昔流行った)で撮影してもらった。 料金所のおじさんには「けたせーな」(三重弁で遅いなの意)と言われた。
なかがみ屋の下りコーナで内側に切れこんでキャッツアイを踏んで転倒した。マフラーがボコボコになり、クランクケースも少しオイルを足す所からオイルが漏れるようになった。GSX-R750の下取りでバイク屋に売った。バイク屋さんが自分で乗るのに使うという。
やはり、ここはGSXRしかないと思い油冷2代目の赤黒GSXRを購入する。('88頃、もう結構昔ですね)注文は5/6(VFでこけたのが5/5だった)で後述のように7/7に廃車となった。
初代の張りぼてのような軽さを気に入っていたので重くなったのは気になったがあえて初代を買う気にはならなかった。
ヘルメットはフレディスペンサーレプリカ(もちろんこの頃は'85)を買った。
1100と違って750はハンドルがトップブリッジの下についていてまだ数cm下げてもカウルにあたらない。さっそく限界まで下げた。
大垂水にこのバイクでは出没した。NSR赤に乗る水道屋(ウルトラマンのハヤタ隊員似)、 CB750FA銀+モリワキショート管のウエスレプリカ、 フルカバード黒CBR750+ブルーのKのジャンプスーツ(現国際A級ライダー)、 TZRに乗る天神、ブルーのFZ400に乗る彼(私と前後して転倒したらしい)といった面々が仲良くしてくれた。 その頃の垂水ではVFR400に群レプリカ(紀元前とかいうチーム。かれはクシタニのつるしのツナギを器具で広げてもらったそうだ)、 初期型NSR青で上りも下りもトタン板の膝擦りまくり(それも横膝だ!)のやつ (「女を連れてくるなんてxx(チーム名)も落ちたな」なんて言われてた)などが常連だった。 (彼らはそれぞれ別のチームに属していてグンは死亡事故があった所をめぐる「地獄巡り」というきもだめしなどをしていた。 チーム名が思い出せない)あとZX10に乗ったおじさんもいた、彼も私と前後して転倒したようだ。私はおせじにも速くなかったがその時すでに最高齢でまあ車(AE86)も持っていたし珍しかったのだろう。(車をなかがみやの前に止めるとそこにたむろることができるしそれだけの年の友人がいるということになる。見に来てたKZ1300の奴がもう若くないですからとか言っていて私の年齢を聞いたとたんに走り出したとかもあった) 天神はオートバイと走るよりは上手い車と走ったほうがいいと言って車の数メートル後ろを走りながら攻めていた。 彼は東京側と神奈川側の両方の救急病院にかつぎこまれたことがあると言う。 水道屋と府中を走っていたらもろ族のバイクが水道屋に挨拶をした、彼は族を卒業して垂水に来たそうだ。彼は歩いているとそこら中の車のミラーを蹴って折るので困った、まあローリング族よりはそちらの方がまともなのかもしれないが。 水道屋はNSR250のキャブをばらして前後気筒の番手が違うのを見て同じ番手にしたところ高速で最高速で走行中に焼き付いた。タイヤがロックしたがかれはなんとか転倒はまぬがれたらしい。彼はXJ400に乗っていた頃はなかがみやの下りでは速度警告燈が点くのを見てブレーキングしていたと言う。 彼の口ぐせは「走ろうよ」で、駐車場に戻って5分もすると走ろうと言う。 この頃は750で峠に行くと「ご苦労様」などとイヤミを言われるような頃だったが彼らは750で攻めていた。彼らと休みの日に垂水に居て雨が降ると雨宿りをして雨があがると車のタイヤ跡を選んで走行したり湘南まで走ったり(ついていくのがやっと)となかなか楽しかった。この付き合いは7/7にこけたあともしばらく続いた。結構メンバーの交代は激しく数カ月しかもたない連中がほとんどのようだ。南南西の風は写真を撮るのが上手い奴の友だちなだけだとか言われてた。ここは津久井署の管内で彼らがパトカーで来るのだが「自分だけはコケないと思ってるんだろう」とか偏見?のある方達だった。
なぜかわざわざなかがみ屋コーナに夜間のオレンジ照明がつけられて夜の走行を盛り上げた。
細いなかがみや前のコーナにもラインというのは存在していて私のラインは危ないといわれてライン取りを教えてもらった。
既になかがみやコーナはかまぼこラインが引かれていてステアリングダンパーが必需品だったがGSX-Rには不要だった。
スクータのカバーを外してフレームだけにした連中がこの頃は下りでよく走っていた。50cc は転倒した時に大事故に なるのと高校生が多いこともあってすぐに通行止めになった。
NSR250の水道屋と河口湖インターから帰る時に競争になり、府中インターを過ぎたあたりでタコメータで1万回転位回った。フルパワーの逆輸入車ならまだここから回るのだろう。 さすがに中央高速でも幅が狭く感じて2車線の真ん中しか走れなかった。(ここらへんが変ですよね)
フロントの剛性の高いサスとラジアルタイア効きの良いディスクブレーキのせいで前輪をロック寸前で管理することができチャタリングをおこすような感覚まであった。
このマシンになると高速道路のコーナを攻める位が丁度よく中央高速の相模湖、東名の箱根あたりまで行った。
いつものように第三京浜を走っていると港北インターのコーナのあたりでパトカーとGSXR数台が路肩に停車していて皮ツナギを着たおやじ数人が泣いていた。そういうことも起こるだろう。
1500kmまでじっくり慣らしをしたが3800kmで廃車になった。まだローンを一度も払っていなかった。
いつも通りに走っているつもりだったがその前後のことを良く覚えていないところを見ると疲れていたのだろうか。 7/7、暗くなった頃なかがみ屋コーナ上りでフルバンクした所リアが流れた、 カウンターを当てたがそのままの状態でキャッツアイをバイクと私の膝が越えた。 4Lの油冷エンジンのオイルをあたりにぶちまけた、 私は足をひきづって後続のバイクをよけた(這ってが正しいらしい)が 後続のバイク(MVX250F)はオイルの上をなにごともなく通り抜けた。 皆が出て、油の処理中にグンレプリカに「走れなくなってスマンネ」と言ったら彼は笑っていた。 私はつなぎのせいで足が紫に腫れただけですんだがバイクはクランクが曲がっていて廃車となった。 垂水からレッカーで帰るのにえらい金がかかった。 転けたのはタイヤが最初からついているミシュランラジアルのままだったせいだろうか。(この頃、γに純正採用されたミシュランはまったく擦り減らないと言われていた) この時に皮ツナギの上に着ていた赤いジャケットは2カ月前にVF750Fで転けた時にも着ていた、 これ以来あまりバイクの時は着ないようにした。この時、カメラを持っていたのだが、この前RKでコケタ時にも カメラを持っていた。カメラとの相性も良くないようだ。
7/7にGSXRを失ってしまったが会社の夏休みが来てまだGSXRは修理に出してあったので バイク屋さんに店先に中古車として並んでいたSR500を借りて北海道ツーリングに行くことになった。
スポークホイールやドラムブレーキのモデルも出ているが 私がかりたのは普通のアルミにディスクブレーキのモデルだった。
加速していく時にアクセルを先に空けぎみにして濃いめのガスをおくってやるとノーマルマフラーでも非常にいい音がした。(バルブには良くないようだ)
普通バイクが振動するというとそれぞれの部品がかってな方向に振動するが、SRはバイク全体が同じ方向に振動する。
500ccでも気持ち良く走れるのは60km位の所で750cc位の排気量があると町乗りにいいようだ。
キック始動だがケッチンをくらわないためには毎回かならず最後まで踏み抜くこと。
北海道に行く途中の東北自動車道であるインターを過ぎた後の上りで突然パワーがなくなって停止してしまった。 ガソリンを入れたばかりなのにもうないようだ。路肩に停止してキックしてみても始動しないのでインターが 近いことだしそこから一旦出ようと思って路肩を逆走したところ運悪くパトカーがやってきてJAFを呼べという。 路肩の電話でJAFを呼ぶとJAFが来たがガソリンを入れてもらってキックをしてみるがやはりかからない。 JAFの人はしょうがないから歩いてインターから出ろという、JAFにお金を払って結局路肩を逆走してインターから押して出た。 まだ深夜だったのでインターを出たところの草むらで朝まで寝た。近所の人にバイク屋のありかを聞いてバイク屋まで押していった。 バイク屋にはRC誌が創刊号からかざられていた。 バイク屋では原付に乗った若いお客さんが来ていてお店の人がバイクをいじるたびに彼がキックをしてくれたがかからない、 昼過ぎまでああでもないこうでもないといじっていたが、 最初のガソリンが直ぐなくなったことなどを考えてキャブの油面が高そうなのでそれを指摘してみると店の人は困った顔をしていたが 油面を調整したところかかってしまった。バイク屋さんのばつの悪そうな顔が印象的だった。修理代は払った。
燃費と燃料タンクの容量からくる走行距離と走行時間は北海道の長い夜には足りずいく晩も 農協のガソリンスタンドの前で朝を待つことになった。
夏休みでも北海道の夜は寒く足寄駅で一泊した時は夜中歩いていた。 自動販売機の前は下から熱気が出てくるのであたたかい。 駅では甲南大学自転車部やレゲエのおじさんとシュラフを並べて一緒に寝た。
オフロードを走っていたらチェーンに石が噛んだようでチェーンが外れた。 近くのプリンスホテルの駐車場で修理していたら、自分が考えればいいので若い者しか雇わんと堤さんが 豪語するプリンスホテルらしく従業員さん は皆バイクに理解があるらしくあたたかい視線を送って来る。 観光バスの運転手さんには「チェーンのコマがはずれたの?」と言われて「今時、コマなんてないですよ」 と答えて運転手さんに「そうか俺がしってるのは昔だからな」と言われたが、 良く見るとSRのチェーンには立派なコマがあった。
内地からバイクで来る連中を現地の人は蜜蜂族と呼んでいた。
札幌から函館に戻る途中、深夜の国道で大渋滞になった、道路が完全に閉鎖されているようだ。バイクがどんどん集まってきてすごいことになってきた。皆北海道ツーリングを終えて戻る途中なのでかなり興奮している。閉鎖が解除されてみると道路に燃えかすのタールのようなものがこびりついているタンクローリが火事を起こして道路をふさいだようだ。
大学時代の友人が就職した後のらなくなったVF750S(白青!)をくれた。VFは彼の寮の駐車場に置かれていた。綺麗好きの彼のバイクらしく程度は良かった。
高速で曲がりながらわだちを越えたりすると車体がかなり振られる。剛性が不足しているとは思えないので前輪のおさえが効かないポジションによるものだろうか。
光チェーンロックなんかをサイドカバーに内蔵していたと思うけど一度も使わなかった。
車検が来たのでバイク屋にタダであげたところ近くの東電のにいちゃん達が駐車場で限定解除の練習をするともらっていったらしい。
会社の職場の先輩が乗らなくなったと言って50万円でゆずってもらった。 ブルーのラインの入ったモデルだった。キャブの調子が悪くまったく吹けない状態だった。 この頃は逆輸入車は手の届かないものでいい買物だった。
モトライダー誌にはいつも新車のインプレッションがあり性能を実測していたが 刀は同時代のリッターバイクを全ての面で大きく凌駕していた。
キャブはフロート下の螺子の螺子山がまったくねじ切れて手でまわる程でガソリンが漏れていた。 バイク屋さんが器用な人で金属粘土を詰めて螺子山を再生してくれた。
出先でロービームが切れたことがあったがシビエの100Wハイビームのままどの車の後ろにもつかず帰ってこれる程そのきになれば速かった。
このバイクは過渡期でウインカーがプッシュキャンセルになっておらずそれが面倒だった。
チョークにはリッパなノブがついていたが、もっと良く使う燃料コックは原付用みたいで手がいたくなった。
つなぎをきると膝がエンジンに当たって膝グリップができた。
ギヤを一速に入れるだけでかなりの音がする。ツーリング中にバスの停留所の近くで一速に入れたらバス待ちの主婦が飛び上がった。
ゆずってもらった時点でチェーンは伸び切っていて調整をしてもだめだった。新品に交換したところギアのタッチやアクセルワークまで改善した。
シートとハンドルの距離が遠くハンドルの高さは400のレプリカなどに比較すると高いのだが身長180cmの私でも腕で上半身をささえる形になるので長距離はつらい。右手だけハンドルに伸ばした場合でも上体がかがむので腹筋が必要になる。左ひじをタンクにつくようにすると楽になる。
ノーマルのマフラーでも排気音は大きく、加速するとコスワースDFVの8気筒F1エンジンのような音につつまれる。とにかくエンジンを吹かしているだけでどこまでも疲れずに行けるマシンだった。(違反切符はもらうかも)
6速でも100km/hで6000rpm位回ってしまいはたして最高速とレッドゾーンの関係がどうなっているのか皆目わからなかった。車体の限界が先にくるので確かめることはできなかった。(直線でもちょっとという感じ)RKでの経験からするとリヤのダンパーをリプレイスして絞め上げればいいのかもしれない。
何回か30M道路の0-400にいったが1100は速く、レプリカバイクや車を片手運転で抜けた。FZ400でウイリーだけみせに来てたやつがいた。
つじつかさ氏の雑誌での刀のインプレッション「300kgを越える物体は所詮人間には制御できるものではない」 というせりふが記憶に残っている。(写真ではフルバンクで箱根の高速コーナを抜けていたが)
春の交通安全週間の時に平和島を走っていると突然交差点で婦警さんが私の行く手を塞いだ。 (轢きそうだったヨ)捕まったかとあせったが路肩の空き地に呼ばれてそこで白バイとスラロームや一本橋をやらされた。刀は当然スラロームはできないので綺麗に2つめと3つめのパイロンを左右に倒したところ婦警さんに大変感心された。貼る気のおきないステッカーをくれた。
ブレーキの効きがいまいちなのでステンメッシュのホースに替えた所タッチがかなり改善した。この時にバイク屋さんのセンスでANDF(アンチノーズダイブ!)は無効にされてしまった。
合成皮革みたいなシートはいくら洗ってもきれいにならなかった。ワックス(車の)も使ってみたがだめだった。
このバイクでも何回か北海道に行った。ある時は北海道の北、東、南の全ての岬の碑の上で寝た。 この頃は北海道に居れば幸せだった。
千歳の近くの公園で寝ていると3機の戦闘機が1機ずつ滑り台の順番を待つように急降下をしては列の後ろにつく訓練を繰り返していた。こんなことを身近でやられては北海道の人も大変だ。
道央を夜走っていると対向車とのヘッドライトの中に何かが隠れているようだ。だんだんちかづくと山のようなそれがごろりと動き出した。牛がセンターラインの所で休憩していたようだ。軽快な足取りで柵を越えて帰っていった。
19inchの前輪はコーナで後輪と関係なく大回りするような感覚だった。
これでもライダースクラブの走行会に行ったが半日でオイルが点検窓から見えなくなった。ひねりもしないのに高い回転を保っても無駄と根元氏が皆にアドバイスしたのでギアを1段上げて乗ったところオイル消費も減って速く走れた。ブレーキはどんどん甘くなるのでかなり手前から減速する必要がある。

タイヤが数千キロで減るくせにタイヤの種類が少なく(TT300かな)在庫もないので注文待ちをしている時に白バイに捕まった。注文中だと説明したが整備不良を切られた。
油冷エンジンを使った刀がいろいろ出ているがオリジナル刀で一番魅力的なのがこのばかでかい空冷エンジンでありこのエンジンをアルミフレームに換装しておもいっきり走らせてやるほうが大事ではないだろうか。 (つまり、ビモータのSB3がこれにあたるらしい。また物欲が...)
2000/1/10:数年間乗らないまま放置していたが今日バイク回収屋さんにタダでもらわれていった。回収屋さんは300kgを越すGSX1100Sを軽々と取り回ししてトラックの荷台に載せていった。後日ちゃんと廃車証?を届けにきてくれた。 もうバイクには縁が無くなったと思い、数十冊のライダースクラブ誌を廃棄した。
バイク屋のおやじの勧めでなんとなくR60を買うことになった。ライト回りのハーフカウルがついたモデルで色はゴールド。
ハーフカウルはすぐに外した。
600ccの2気筒エンジンは低回転では単気筒のようにドコドコ感があり回転が上がるにしたがって振動が増えるが6000rpmを越えたあたりから振動が収まってなめらかに最高回転までまわり最高速で巡行してもまったく疲れなかった。
最高速は程々だったが気持ち良く走れR100などにのっている人が挨拶してくれた。横浜新道の休憩場などで止まっていると他のBMWが話かけてきて壊れやすい部品(パンクしやすい部品)などに話が咲いた。
セルは飛び込み式で独特の音がする。
クラッチは乾式で小さいクラッチレバーを引くと気持ち良く切れる。 ギアチェンジの遊びは大きく、乾式クラッチと相まってギアチェンジはゆっくりとするしかない。 国産車だと吸い込まれるようにギアが入るがBMWは全然違う。(シンンクロメッシュとかバイクにもあるの?) ブレーキレバーも同じく小さく効きはしれていたが操作はしやすかった。
ブレーキはシングルディスクでタッチはしっかりしているのだがテッパンを両手でおさえているようでいくら力をかけても効きはたいしたことなかった。
ハンドルグリップは内側が径が小さくなっていて自然に外側を握るようになっている。(タイコタイプに近い)
マフラーは非常に薄い金属でできていて錆びを作ると簡単に穴があくようだ。また国産車のように2重になっていないので簡単に綺麗な色に焼くことができる。
伝統のボクサー水平対抗エンジンは左側が前にでていてステップもそれに合わせて左右が違う位置についている。ボクサーはクランクピンを共用しないので左右のシリンダーが結構はなれている。
府中で下宿の前に置いておいたらエンジンがかからなくなり近所のバイク屋に預けたが数カ月たっても直らず軽トラを貸すので持って帰って欲しいといわれた。買ったバイク屋に持っていくと配線がすっかり替えられているという、BMWは国産車と違ってコネクタが全部同じなので配線の戻し方がわからなくなったらしい。
手入れが悪かったのかすっかりエンジンから粉を吹いてバイク屋にもらわれていった。
バイクはとにかくポジションということでレーサーレプリカのポジションでホイールのインチ幅もべたべたのハイグリップタイヤがつかえるということで新車で購入した。
ヘルメットは倒産直前のショウエイの白を買ってジルビルニューブレプリカに塗装してもらった。ラバッツのシール等がないのでちょっと間が抜けていた。ライパでネモケンさんにサインをしてもらった。
バイク屋さんがプロダクションレーサにつけるというタイヤをくれたのでつけてみた。タイヤがかすを拾ってだんだん太くなるというおもしろいタイヤだった。
いかんせんパワーがないのでフルバンクのシチュエーションがつくりずらい。上手い人ならいくらでも突っ込みで速度を付けられるのだろうがエンジンだよりの人間にはつらいマシンだった。750を下りのコーナでぶち抜くというようなことは一度もなかった。
RIDERS CLUBの走行会やクシタニの走行会で那須サーキットを走った。このマシンで練習するとバイク屋主催の走行会で貸してくれたGSXR400などでおもしろいように走れた。
免許試験場で休みの日にやっているジムカーナみたいな会にも行った。安全指導員などシロバイのライディングが理想という変わった人種の人達がいた。この経緯をミスターバイクに投稿したところマンガに採用された。あんな狭いコースにもライン取りがありだんだん速くなるのがおもしろかった。世田谷のシロバイ練習場にもタイヤの横をそこだけで減らしてしまうというマニアがいるらしい。
オフロードバイクDR譲りの単気筒エンジンはきれいに最高回転までまわり程々でそのままいくらでも走れた。SR500と比較するとこちらの方がコーナ向きだった。ただ、何故、単気筒なのかというのはあるだろう。VT250のエンジンなどは生産コストはこのエンジンと変わらないだろうし重量も走りをスポイルすることはないだろう。単気筒の味という意味ではマフラーを交換しないとあまり感じることはできないと思う。
ポジション的にはレプリカと同じはずなのだが乗った感じがどうしても違う。カウルやエンジンのマスが違うせいだろうか。
結局このバイクは一度も転倒することなく会社の後輩に売った。
売った後もレース仕様などで私よりも速く走る姿を見かけると乗りたくなる。
会社の友人から10万円で売ってもらう。色は黒。
ライディングパーティ2001
那須のライディングパーティ関係者の皆さんおつかれさまでした。前回の筑波の時は調子がでないうちに終ってしまいましたが今回は時間があったせいか満足するところまで走れました。緑ゼッケンの渋滞のおかげで編集の方のドカの後ろを数周走る事ができたりとなかなか楽しく過ごせました。伊東さんのならしの話をきいてから1月号の記事など読み返しています。(私と同じ年齢身長で10kgも体重が少ないとは!)
(2001年7月号掲載)
こんなところにR/C
こんにちは、R/Cのみなさん。先日、土曜日にいつものように愛車GSX-R750RKのお散歩に箱根に行った帰りに用賀から環8におりると京都セラの先でいつものように渋滞につかまりました。バイクを止めてふと路肩をみると派手なバイクが駐車しています、あらまたバイク屋ができたのかと見ているとビルの中から見慣れた黄色いアロハを着た伊東さんが出て来ました。ヘルメットを下げてあいさつすると「オヨッ」という感じであいさつしていただきました。土曜も働いてるっていうのは本当なんですね。那須ライパの写真届きました、さすが本誌カメラマンさんだけあって記事中の写真と構図、バイクの角度、撮影場所!までピタリと同じです。
(2001年9月号掲載)
行ってきました「 もて耐」
R/C誌のみなさんこんにちは。 話題のもて耐にいってまいりました。鈴鹿8耐決勝でもライパと見分けがつかない私は迷わずいろいろなバイクが見れる土曜日のもて2耐に照準を合わせて観戦しました。もて2耐はその期待を裏切らず昔私が乗っていたのとカラーリングまで同じVF750FやGSX-1100Sなどが元気に走り回っていました。もてぎのコース幅が広く直線も長い国際規格のコースはかなり性能差のあるマシンの混走でも追い抜きがストレスなくできてみなさんレースを楽しまれているようでした。 apriliaで参加(もちろんもて7耐)されている営業の中島さんにはカメラケース代わりに使っていたライパのミシュランTシャツを見て声をかける為のためまで作っていただいた?ようですが休みの日に声をお掛けしてよいものかと迷っているうちにタイミングを逃してしまいました。ピットでお見かけした時はapriliaのマシンを見つめて難しい顔をされていましたが翌日の決勝では無事に完走されたでしょうか。
(2001年11月号掲載)
GSXR1100ツーリング
R/C誌のみなさんこんにちは。先日、インターネットで知り合ったGSXR1100オーナによるGSXR1100ツーリングに参加してきました。集合場所の福島県アルツスキー場のホテル駐車場に集合したGSXR1100は30台以上、ほとんどのGSXRがマフラー、キャブをリプレイスしていて既に10年以上を経過した車両が多いにもかかわらずどの車両も同一年式のように手入れが行き届いていました。その後レークラインを走行して二本松のペンションに移動して夜遅くまでGSXR談義に花を咲かせました。翌日は東北自動車道で帰京したのですが途中1台がガス欠で路肩に停車すると後続の数台が安全を確認して路肩に停車するとタンクバッグからソケットレンチをとり出し手馴れた手順で自分のGSXRのガソリンタンクを外すとそこからガス欠した車両に燃料を補給して直ぐに走行可能にしてしまいました。参加したメンバー全員のGSXRに対する愛情が感じられたすばらしいツーリングでした。
(2002年1月号掲載)
10年前のライパの風景
R/Cのみなさんこんにちは。私の記憶にあるライパの風景をすこし。だんだんとスタッフの緊張が高まるのがひしひしと伝わってくる。始めて参加する人間はそれだけで場違いな所に来てしまったことを後悔しているようだ。定時を少し過ぎた頃にトランポからウルトラマンつなぎを着たネモケンさんが降りて来る。昨夜良く眠れかなったのかかなり不機嫌そうだ。さっそくスタッフになにか注意をしている。見ているこちらの方がなにかすまない気になってくる。マイクがネモケンさんに渡され「オッス!」いや8時だよ全員集合ではないのデスガ...ここからは今と変わらない(BMWでなくゼファーでしたが) 和気合い合いとしたライパでした。
(2002年1月号掲載)
最後のバイクを手放して数年が経過した。(走らないGSX1100Sはあったが)またなにか買いたくなった。もう一度400に乗ってみるのもいいか(やはりバイクのバンク角と旋回の関係は車重の影響をもろにうけるので400クラスの優位はあきらかだし、CBXに乗っていた時より上手くなっているハズ)と思ってなじみのバイク屋に行くと今国産車は悲惨な状況であるという。パワーの制限をうけてまったくおもしろくないらしい。
バイク屋さんによると国産の2ストはもうなくなり、ガンマの逆輸入なら何台かありそうだとのこと探してもらうことにする。ガンマがないということでアプリリアに決まった。
ヘルメットを買いに行った。なにやら4万円台でアライのRX-7がおいてあったので迷わずこれにした。お店の人がパールカラーの特別色が同じ値段であるからそれにしたらと言ったがオリジナルの白にした。白のRX-7といえばプロダクションレースとかをする連中の定番だし、このそっけない帽体と白がとてもいい。買った後でマニュアルを見ると、昔のままの空気穴の少ないタイプもあるようだ。こちらは昔通り7万位するのだろうか。
メータはデジタルのスピード、アナログのタコで14000rpmまで目盛りがある。
99モデルから00になるときにかなりデザインが変わったようだ。たしかに00のカウルの形はGPマシンのレプリカなのだが99モデルの方がアナログメータといいカウルといい良さそうだ。(99でなく97位で変わったらしい)
燃料はレギュラーでいいそうだ。
ブレーキはブレンボでたしかに良く効くがNSRのように何km/hでも即ロックさせられそうなあぶなさはない。鋳鉄らしくさびるそうだ。
色は赤黒だが赤はオレンジで古いビックバイクに合いそうな赤。原田哲也のレプリカらしく、カウルにTETUYAの文字と日本とイタリアの国旗がかかれている。原田はWGP500であまり調子が良くないようだ。
さすがにガンマのエンジンだけあって東京の朝の渋滞でもNS250Rのように冷却液を漏らすようなこともない。が水温が91度あたりを越えると低速がなくなってくる。
ならしは、800kmまで6000rpm1600kmまで9000rpmの指定で6000rpmだと105km/hしかでず、最近の一般道でもこの速度では交通をリードできずこわい。
'88 NSR250に比較するとこのガンマのエンジンはパワーバンドがいくぶん狭いようだ。
オイルの消費は少ないようだが交差点で自分の排気で頭がくらくらすることがある。
夜の15号線の地下トンネルのコーナで2人乗りのTL1000Sに千切られた。
オイルの警告灯は800kmで灯いた。ならしでこの距離なので実際はもう少し短いだろう。燃費は250kmで予備タンクになり14l程の給油を必要とする。(今は160kmですトホホ)
レッドゾーン表示はなく。赤いランプが点滅してしらせる。この回転数は可変で、ボタンで変更することができる。(マツダRX-7もこうなっているらしいオーバレブに強いのだろう)
ポジションは確かに前傾だがハンドルが近く刀ほどきつくない。私だと両手の手首が膝に触れる位のポジションだ。
タイヤのお化けのようなバイクでバイクの進む方向を道のある範囲にもって行ければこけることはなさそうだ。GOOUSEと同じタイヤサイズだしGOOUSEにはプロダクションレース用のタイヤをつけていたがアプリリアの方がねっとりとする感触だ。(これは最初の頃の感想で今はタイヤが細く感じている)
レーシングオンの記事を見て筑波の走行会に申し込むためにTELをしたら、筑波の持ちタイムを聞かれた。初心者はだめらしい。
RIDERS CLUBの那須の走行会に申し込んだ。開催日を土曜と日曜を間違えて行けなかった。土曜日は第三京浜でブレーキングの練習などをしていた。随分高い通行料になったものだ。
神戸往復して総走行距離は2000kmを越えた。このエンジンは9000rpm前後になると振動もおさまり手がつかれない。帰りにどしゃ降りの中央高速も走行したが軽量な車体はバンク角が浅いためかまったくコーナで不安がなく雨でもアベレージが落ちない。(ブレーキには気をつける必要がある)
リザーブに切り替えたのを忘れて走り続けてあやうくガス欠になる所だった。18.2Lも給油をした。
RIDERS CLUBの走行会で筑波を走った。バイクの性能は高いが私の方の限界ですべてのコーナでアウトインインになってしまう。自分と同じペースのバイクを見つけて相手の速いコーナーで後ろについてラインを盗めば良かったが今回はそこまで考えが回る前に15分*3回の走行時間(1回目は先導付き)が終わってしまった。ドカのSPSやRC45、RC51、MVまで高価なバイクが目白押しだった。この日唯一転けたのはW650の根元さんだった。なんの前触れもなく突然とのこと、バイクはそういうもんですね。春の交通安全週間で帰りの首都高速の一車線規制の所でつかまってしまった、2点7000円。
10年以上前にオーダしたつなぎはかなりきつく。しばらく着たままで部屋を歩くなどして伸ばした。
筑波で知り合いになったおにいさんのバンデットの750に乗せてもらう。最近のネイキッドはFBの頃と違って達磨のような感じで少し体をかたむけるだけでおもしろいように曲がっていく。これと比較するとRS250の曲がり方が古典的なものに思えてしまう。
RC誌で少しRS250のページがあった。結構部品もあってチャンバーなどがあるようだ。
中原街道にアプリリアを扱うバイク屋があり見に行く。'97?モデルはメータがアナログでカウルも細くこちらの方がレーサー度は高く思える。
しばらく乗っていなかったらバッテリーが上がってしまった。こいつのバッテリーはメンテフリータイプでなく液を入れるタイプだ。はずして液面を確認すると1cm位低くなっている液を足して、押し掛けでかけて一日乗り回したが全然回復しない。車も売ったことだし乗る機会を増やそうと思う。
バッテリーがあがっているとトリップの走行距離が毎回ゼロになってしまうし、回転計はふらふらと勝手にレッドゾーンを指し続ける。
いくら走行してもバッテリーが復活しない。しょうがないのではずして充電器で1日充電し復活させた。
環八にアプリリアの輸入代理店をしているボスコモトの店ができた。元イタリア雑貨の店だった建物だ。アンケートに答えたらTシャツをくれた。(洗濯したら色落ちした。単独で洗うべし)この店には2ストは50ccしかなくてこれからは大排気量V2で勝負するようだ。しかしすべてのメータのデザインがRS250と同じでしかもかっこわるいのはなんとかしたほうがいいと思う。
久しぶりに箱根に走りに行った。行きの東名ではかなりの速度を楽しめる。(最近楽しめない。空気の濃さが関係あるのかな?)バイクは視界が良いしブレーキも私のかえる車よりもはるかに効き加速も良いので少しの空きで楽しめる。御殿場への上りの所ではパワーの低下を感じるここいらへんが250ccということだろうか。芦ノ湖スカイラインではラリーアートのイベントをやっていて飛ばしている車がいたので少し怖かった。
バイク屋に2ストオイルをいれにいくとTT600Rというヤマハのオフローダが置いてあった私でも両足がやっと付く位で欲しくなったが2台バイクを持ったときにろくなことがないのでがまんがまん。
RIDERS CLUBの那須の走行会に申し込んだ。朝5:00に出発したが那須は200kmも遠くにあって集合時間の8:00にやっと着いた。とちゅう前まであった最後のガソリンスタンドが無くなっていて給油をせずに着いてしまい途中でテーピングを剥がして給油に行った。筑波の時と同じくずっと調子が出なかったがさすがに那須は10:00〜16:00位の走行時間があるのでだんだんこつを思い出した。コーナで曲がりが弱くてアクセルを開けられなかったが腰を後ろに預けて頭を極端に低くすると旋回力が増しアクセルを開けていける。それに加えて40km/h台に速度が低下するポイントが何個所かあるのでそこで1速を使って見たかったがその時はそこまで考えがまわらなかった。今回の走行会で一番気分良さそうに走っていたのはCBR250のおにいちゃんでやはり高価なバイクをおそるおそる走らせるよりは転けてもいい位の気持ちで走れる方がよさそうだ。(RC誌の趣旨には反するかも)今回の高価なバイクはNR750、SP1、などだった。以前よりドカが減ったように思う。(NINJAも)RC誌は以前は根元さんの記事以外のインプレッションは読む気がしなかったがだんだんそれぞれの編集員さんの好きな分野を紙面で展開することによってか上手く世代交代ができたようだ。
鋳鉄ディスクで錆びるというが錆びというよりしみのようなものがディスクの内側のパットにあたらない部分にできてしまっている。
ハンドルの位置を下げようとしてハンドルをトップブリッジに固定しているボルトを外そうとしたが最初ショボイ車載工具で作業をしようとしたためかどをなめてしまい外せなくなった。しばらくハンドルを下げるのはおあずけになった。空気圧が1.0kg程度に低下していた。
また、那須のライパ走行会に行った。今回はだいぶ暖かくなってきたので参加者も若い人が多くかなり転倒者が出た。R1はどうもコーナ出口でハイサイドしやすいようだ。今回は試乗車としてドカの996と750SSがあり乗ったところ自分のapriliaより確実に速く走れた。どうも前輪の動きが違うようだ。apriliaは軽量すぎて手に力が入っているのだろうか。
週末に箱根に行った。今回はブレーキとギヤに注意するためにリーンウイズのみで行こうと思っていたが現地ではやはりハングオンしてしまう。1号線の三島からの上りは2車線化が完成していて日曜でも走ることが可能になった。バンクのあるコーナもあり非常におもしろいが、apriliaでも2,3速!のコーナ(直線では4速も)なのでリスクは大きいだろう。996が1台いて排気音がこだましていた。(当然ノーマルではないなあれは)上りでたまたま刀改(イエローコーンの油冷かな?)の100m位後ろを走ったが上まで差は詰まらなかった。(なんだかな〜)RC誌の言う抜重による向き変えの練習をするが良く判らない、スキーはできるので体重を抜いてエッジの切り替えをすることは理解できるのだがバイクでは低速では確かにできるようなきがするが速度があがるとバイクも粘るのでとてもできない。スキーは速度が出ても抜重できるがタイヤがないからな。公道では、道路に沿って走るために那須のようにコーナのクリップをとって皆がおもいおもいにRをえがくような練習はできない。でも、とにかくそれ以前に今の私はバイクに跨っている時間が短いのでそれを伸ばしていき感覚を維持することの方が重要そうだ。頂上のラーメン屋さんのネギラーメンは上手い是非どうぞ。ツナギのままで大丈夫。
13Tのスポロケをバイク屋さんに注文した。立ち上がり重視といってもギヤがある程度ロー側でクロスレシオになるだけであまりかわりはないだろうが試しにやってみる。部品はきたのだがRKを買ってしまったのでとりあえず部品だけを受け取った。(ガンマ用のスプロケには2種類あるみたいなのでよく確認した方が良いです)
2001年9月5日に那須で行われたクシタニの走行会に参加した。apriliaで申し込みしたために何故かNSR250やRS80(オイオイレーサーだ)のクラスになっていてこのクラスが優先のようで25分*6本も走れたのだけど47秒台で走る連中の中で55秒位で走るのは疲れた。ベストラップは52秒738だった、このタイムを流し満貫のようにポンポンとならべられればかなりのものだがほとんど55秒位だった。ライパの6周はいかにも短いが25分は私には長すぎる(那須にはユノディエールのようにお休みのできる直線がないのでよけい疲れる)。私位のレベルではブレーキをにぎったままフルバンクしても問題ないことがわかった、ブレーキをにぎったまま曲がるとフロントの加重が高いのでフロントが巻き込むように曲がる。また立ち上がりで十分に腰が入っているといくらアクセルを開けても曲がっていくような感じも数回確かめることができた。でもそういうことがおきるようになるにはまだバンクが足りないことがわかったもう一段倒し込む必要がある。同じバンク角(バイク+自分で考えた重心のバンク角)ならばバイク自体が寝ている方が旋回力が強いのであまりハングオンせずにバイクを寝かせることに専念したほうが良さそうだ。また、ハイオクガソリンの効果も確かめられた直線でレギュラーでは3速で余裕なのにハイオクでは3速を完全にふけきってしまう。
apriliaはまたがると豹かなにかにまたがったようにサスが沈む。RKはデンという感じ。
スプロケを13Tにした。12000rpmで200km/hとなったがそれに到達するにも少し時間がかかるので走行会向けにはこれでいいだろう。結局、那須でのタイムは落ちた、2 速の上限が下がったせいだろう。
バッテリーを交換した。ホンダの原付と同じものでメンテフリータイプのもの。

2004年冬。数ヵ月乗っていなかったらまたバッテリーがアガッてエンジンがかからなくなった。
バッテリーを交換しガソリンが空だったのでガソリンを補給してエンジンはかかる
ようになったものの原付のようにパワーがでない。数日すると車体の下にガソリン
の染みができていた。

時計などがついていて常にバッテリーを消費するので普段はバッテリーのマイナス
端子をはずしておくことにした。


下側のキャブのオーバフローパイプからガソリンが洩れている
ようなのでとりあえずばらして掃除して組んでみた 。

調子の悪いまま、保土ヶ谷パーキングで行われた aprilia ミーティング
となりのバイクはRSV100R FACTORY。(トランボで来てた。この人が大垂水のクシタニ君だったのだ)
結局この時、私は1気筒で参加していたようだ。他の方の撮影されたミーティングの写真

翌日はまたお漏らししている。泡タイプのキャブクリーナが良い
と aprilia デーラの方が保土ヶ谷で教えてくれたので買ってきた。
(キャブクリーナはミクニのキャブでは専用のものを使わないとゴムが延びてしまうそうです)

泡につかるメインジェット。かなり小さい穴もあいているので
泡の効果があるかもしれない。V2 は前後でメインジェットの番手が
違うことがあるので組み付けを間違えないようにする。

コックを OFF にしてもガソリンが流れ続けるので横にしておく。

結局、後方気筒のキャブのフロートにつながるバルブが固着していた。
浮力でうごかなきゃいけないのにマイナスドライバーでかなり力を
入れないと動かなかった。

今度は大丈夫かなと2004年12月の保土ヶ谷パーキング。
ガソリンが無い状態でキャブを1年近く放っておいたのがいけないかったと
思うが、バイク屋さんによるとガソリンは無い方が良いというマリン用の
船外機、ホンダの発電機などは全て遊んだ後はキャブからガソリンを抜くからと言う、
どうだろうか。
隣のRSはシートカウルから食品を出してたべだした、
食品入りのシートカウルを見たのは10年ぶりだ。

2005/2/9 千葉の茂原ツインサーキットの走行会に参加した。
ここを選んだのは、左回りだからである、キングケニーロバーツ(シニア)が
90度の組合せでしかコーナーリングできないように私は左回りの組合せ
でしか曲がれないのだ。
大田区を4時出でゆりかもめを通り6時半についてしまった。
前日の雨によって路面は完全ウエットで開始され
誰も走行しないので最初は私一台で3周のパレードラップを行った。
本の取材(クラシックモーターサイクリングらしい)とかで(ハーレー)アエルマッキ(水上機のシュナイダーカップで有名)のレーサ(250cc単気筒、チェリアーニのフォーク
に2リーディングエアスクープ付きフォンタナブレーキ、デロルトフロート一体式ダウントラフトキャブ
、フレームはエグリ風(モトグッチが先)1本パイプ。
この写真の押し掛け後前輪がスリップして、カックンブレーキそうだった。
有名なA級ライダー山田純氏もアエルマッキで走行した。
300mm のカメラをもっていったのだが壊れていて撮影できなかった。
RS250 そのままのファイナルだと1速が低過ぎて一瞬だけ1速を使い
2速につないでも回転が低く加速を待つ時間ができてしまう。
メインストレートでは私でも2速が吹け切る。
750クラスは2速のみで走行のようである。
高低差もエビス程ではないもののちゃんとあり、
インフィールドセクションが下りでのシケイン通過でラインが難しい。
走行料は20分*5本で7500円(一週間以上前に現金書き留めで申し込みの場合。
葉書で受理証が送られてくる。)、
タイム計測のトラポンは1000円である。
8:30からドラミで9:00から走行である。
トイレは綺麗で、
立派な食堂もある。(1000円位)
何故かナンバーは「34」番であった。
カートのサーキットも隣接している。
自走バイクの方も多く参加されていた。
いわゆる大型バイクの方が半数である。
(2005年から)毎月1回バイクの走行会が開かれている。
平日と休日の月があり、平日はがらがらのようだ。
(がらがらなのでこの日はクラス分けを2クラスにして交互に走行。最大同時に30台走行)
本日の私の Best は 67.518秒、最速の人で 38.312 秒 コースレコードは 35.070 秒だそうだ。

潰れたボルトの頭を飛ばすために鏨、300円。
ボルトの頭を飛ばすより、鏨でネジを回す方向に力を入れる方が簡単だった。
何故か私のRS250がここに
キックアームがでなくなった。キックアームを止めているリング(ワッシャの上のリング)
の開いている場所を180度回転させたら出るようになった。

リヤを44Tにした。これで下げられるだけ下げたことになる。最高速は180km/hへ。
チェーンはかなり硬くなっていた。チェーンルブをただ吹けばいいんじゃなくて
定期的にクリーナとかをつかわないといけないのかもしれない。
2005年3月30日のライダースクラブ主催のツインリンク茂木のライディングパーティ
に参加した。
勢いで、P-LAP 28000円を購入した。
Best LAP は 2分51秒970。
もて耐の予選を見ると3耐参加のSDR でも2分34秒台を叩き出している。
250cc の空気圧は、1.5,1.6kg/cm**2でいいそうだ。

ヤフオクで買った謎CDI。ニュートラルランプが点灯しなくなる。スガヤなのだろうか。
(結局このCDIは使用していません)

ギヤチェンジの軸のリンクとの接合が空回りするようになってしまった。
外側のギザギザがある部分にずらして固定しなおした。

スガヤのチャンバーを入れてみる。13000rpm 回るものの全体にパワーダウンした
ように感じる。ついでにブレーキパッド、タイヤも交換した。

メインジェットを換えてみようとキタコのメインジェットを入手した。
キャブの下部のネジ1つをなめてしまったので交換は中止になった。前回の掃除の時に締め過ぎたようだ。
モテギの走行会レースやろうぜ!に参加した。モテギを数周するとガス欠のような症状で9000rpmあたりから
上にまわらなくなる、数秒待つと症状は改善してまた数周すると再現する。チャンバー交換の影響だろうか。
第三京浜あたりでは再現しないのでやっかいである。

キャブのネジを交換してメインジェットを上げてみる。
#270→#290、#280→#300。
濃くすると中速が良くなるかわりに上が吹けなくなるそうで、逆かもしれない。
下側のキャブのメインジェット回りは前回の掃除からあまりたっていないにも
かかわらず、かなり汚れていた。停車中のガスは全部下側で気化するのかもしれない。
筑波のライパでも息継ぎが再現した。下側のキャブの燃料パイプの問題かもしれない。
スポーツランド山梨(SLY)を走行した。ここの高度では、最初から全然ふけず、濃いことが判明した。
現象が起こるのは走行開始後数周で水温が72度を示す頃のため、
オーバークールではないかということで、ラジエータをふさいで走行した。
改善したようだ。チャンバー取り付け→濃くなる→水温に敏感になる、だろうか。

ヤフオクで、γ用のレーシングCDIを落札した。
中途半端な結論で申し訳ないが
スガヤチャンバー、#270→#290、#280→#300、γ用レーシングCDI、ハイオク、でセッティングは出ているようだ。
キーを on にしても電気が入らなくなった。
キーを off にするとバッテリをつないだ時に起こるタコメータの針を3回振る
儀式をする。どうやら負荷のかかった時に電流が不足してキーを off にしたとき
にバッテリーが接続されたと思っているようだ。バッテリーを2時間位充電したら回復した。


ギヤオイルの交換をした。オイルはヤマハのギヤオイル。
必要なのは700ccでキックの近くのプラスネジの場所から洩れる位に入れる。
古いオイルはだいぶ銀色の成分があり、量もだいぶ減っていた。
クシタニの走行会に参加するも、1周目で1気筒化してしまい、パドックでキャブを分解
するはめに、フロートについている細いハリガネが外れているのを発見してこれが原因
かと思い組むものの復活せず、さらにキャブにチョークから来ているワイヤーを止めている
ボルトをなめてしまった、プラスチックだとは気づかなかった。




























































































| 年月 | サーキット名 | 天候 | バイク | タイム |
|---|---|---|---|---|
| 2005.4.11 | ツインリンクモテギ | 雨 | RS250 | 2:51:592 |
| 2005.4.13 | 鈴鹿サーキット | 晴 | RS250 | 3:25:809 |
| 2005.4.24 | 岡山国際サーキット | 晴 | RS250 | 2:14:693 |
| 2005.4.28 | 筑波サーキット | 晴 | RS250 | 1:24:274 |
| 2005.5.05 | 茂原ツインサーキット | 晴 | GSXR750RK | 1:05:046 |
| 2005.6.01 | ツインリンクモテギ | 雨 | RS250 | 2:48:440 |
| 2005.6.08 | 茂原ツインサーキット | 晴 | GSXR750RK | 1:05:941 |
| 2005.6.10 | 筑波サーキット | 晴 | RS250 | 1:22:734 |
| 2005.6.11 | SLY(スポーツランド山梨) | 曇時々雨 | GSXR750RK | 0:49:150 |
| 2005.6.14 | 筑波サーキット | 晴 | RS250 | 1:17:993 |
| 2005.6.15 | ツインリンクモテギ | 雨 | RS250 | 2:54:993 |
| 2005.6.25 | トミンモータランド | 晴 | GSXR750RK | 0:33:288 |
| 2005.6.29 | 茂原ツインサーキット | 雨のち曇 | RS250 | 1:00:519 |
| 2005.7.02 | トミンモータランド | 曇 | RS250 | 0:33:240 |
| 2005.7.05 | 筑波サーキット | 曇のち晴 | RS250 | 1:19:387 |
| 2005.7.07 | トミンモータランド | 曇のち晴 | GSXR1000K5 | 0:33:315 |
| 2005.7.10 | トミンモータランド | 曇時々晴 | GSXR750RK | 0:32:909 |
| 2005.7.14 | 筑波サーキット | 雨のち曇 | GSXR1000K5 | 1:17:475 |
| 2005.7.17 | 茂原ツインサーキット | 曇時々晴 | RS250 | 0:59:879 |
| 2005.7.21 | 筑波サーキット | 曇時々晴 | GSXR1000K5 | 1:14:823 |
| 2005.7.29 | 筑波サーキット | 曇時々晴 | GSXR1000K5 | 1:15:367 |
| 2005.8.03 | 筑波サーキット | 曇のち晴れ | GSXR1000K5 | 1:14:057 |
| 2005.8.05 | 筑波サーキット | 晴 | RS250 | 1:16:688 |
| 2005.8.10 | 茂原ツインサーキット | 曇 | RS250 | 0:58:665 |
| 2005.8.11 | 筑波サーキット | 曇のち晴 | RS250 | 1:18:567 |
| 2005.8.11 | 筑波サーキット | 曇のち晴 | GSXR1000K5 | 1:13:378 |
| 2005.8.24 | 筑波サーキット | 曇 | RS250 | 1:16:330 |
| 2005.8.27 | 筑波サーキット | 曇のち晴 | GSXR1000K5 | 1:14:868 |
| 2005.8.30 | トミンモータランド | 曇 | GSXR1000K5 | 0:32:139 |
| 2005.9.01 | 筑波サーキット | 晴 | GSXR1000K5 | 1:15:703 |
| 2005.9.09 | トミンモータランド | 曇 | GSXR1000K5 | 0:32:062 |
| 2005.9.11 | エビスサーキット東 | 雨 | GSXR1000K5 | 1:25:160 |
| 2005.9.14 | 筑波サーキット | 曇 | GSXR1000K5 | 1:13:702 |
| 2005.9.15 | トミンモータランド | 曇 | GSXR1000K5 | 0:32:864 |
| 2005.9.27 | 筑波サーキット | 曇 | GSXR1000K5 | 1:13:836 |
| 2005.9.30 | 筑波サーキット | 曇 | GSXR1000K5 | 1:15:212 |
| 2005.10.12 | 茂原ツインサーキット | 晴 | CBR600F4i | 0:58:313 |
| 2005.10.19 | 鈴鹿サーキット | 晴 | CBR600F4i | 3:03:540 |
| 2005.10.23 | トミンモータランド | 曇 | CBR600F4i | 0:31:240 |
| 2005.10.25 | 茂原ツインサーキット | 晴 | CBR600F4i | 0:56:939 |
| 2005.10.25 | 茂原ツインサーキット | 晴 | GSXR1000K5 | 0:59:326 |
| 2005.10.26 | ツインリンクモテギ | 晴 | CBR600F4i | 2:29:210 |
| 2005.10.28 | トミンモータランド | 曇 | CBR600F4i | 0:30:271 |
| 2005.10.29 | 茂原ツインサーキット | 晴 | CBR600F4i | 0:56:963 |
| 2005.11.4 | FSW | 晴 | GSXR1000K5 | 2:10:759 |
| 2005.11.5 | ツインリンクモテギ北ショートコース | 晴 | CBR600F4i | 0:51:678 |
| 2005.11.9 | FSW | 晴 | GSXR1000K5 | 2:13:496 |
| 2005.11.16 | 筑波サーキット | 晴 | GSXR1000K5 | 1:12:513 |
| 2005.11.17 | 茂原ツインサーキット | 晴 | GSXR1000K5 | 0:58:225 |
| 2005.11.19 | 筑波サーキット | 晴 | GSXR1000K5 | 1:12:258 |
| 2005.11.20 | ツインリンクモテギ北ショートコース | 晴 | CBR600F4i | 0:54:339 |
| 2005.11.25 | 筑波サーキット | 晴 | GSXR1000K5 | 1:12:460 |
| 2005.11.29 | 筑波サーキット | 晴 | CBR600F4i | 1:12:532 |
| 2005.12.14 | 茂原ツインサーキット | 晴 | CBR600F4i | 0:57:898 |
| 2006.1.19 | ビーチサイドGP | 晴 | GSXR1000K5 | 0:38:264 |
| 2006.5.4 | 筑波サーキット | 晴 | GSXR1000K5 | 1:10:813 |
| 2006.5.4 | ツインリンクモテギ北ショートコース | 晴 | GSXR1000K5 | 0:51:367 |
| 2006.5.17 | 筑波サーキット | 晴 | GSXR1000K5 | 1:12:446 |
| 2006.5.17 | 桶川スポーツランド | 晴 | GSXR1000K5 | 0:57:241 |
| 2006.5.20 | ツインリンクモテギ北ショートコース | 晴 | GSXR1000K5 | 0:51:742 |
| 2006.5.26 | 筑波サーキット | 晴 | GSXR1000K5 | 1:11:160 |
| 2006.5.31 | 筑波サーキット | 晴 | GSXR1000K5 | 1:11:681 |
| 2006.12.24 | トミンモータランド | 晴 | CBR600F4i | 0:31:628 |
| 2005.0.00 | 筑波サーキット | 晴 | GSXR1000K5 | 0:00:000 |